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殺身成仁

孔子出生に
まつわる秘話


我少くして賤い

生きる糧としての学問
十五にして学を志す


孔子の結婚と子供

三十代の孔子
三十にして立つ


善哉聖人
四十にして惑わず


為政者として

コラム
自分をつくれ


孔子面目躍如の
「夾谷の会」


十四年にわたる
亡命生活


五十にして天命を知る

孔子の晩年

コラム
孔子における仁とは


孔子、没す

論語、
弟子により編纂


ビューティフルワールド 22

天を識って仁を悟る

孔 子

【 Confucius : B.C. 552頃~479頃】

釈迦、キリストと並んで世界の三聖人と言われる孔子。
彼が生きたのは今から2500年前の中国大陸。
当時は周王朝が滅亡、人々の心が荒れすさんだ春秋戦国時代でした。
「乱世に人はいかに生きるべきか?」
彼はこの問いに対する答えを求め
溢れんばかりの生命力でまっしぐらに人生を走り抜けました。
そして戦乱の中を生き抜く指針として
儒教の神髄『論語』を作りあげたのです。
『論語』は孔子の弟子たちが彼の死後、
その教えを編み上げた言語録です。
そこには自らの人生の指針を語り、
人間の本質に迫ろうとした孔子の姿が
生き生きと描かれています。


 

 ◆ 殺身成仁 さっしんせいじん


2002年1月、JR山手線新大久保駅で痛ましい人身事故が起きました。酔って落ちた男性を助けようと、とっさに二人の男性がホームに飛び降り、そのまま3人とも列車にひかれ、即死。とりわけ、助けにホームに降りた男性の一人が韓国人留学生であったため、事件は日韓両国で大きく取り上げられました。亡くなった韓国人留学生は李秀賢 イスヒョン さん。日本の文化に興味を持ち、日本と韓国との架け橋になりたいと願っていました。彼の死に際し、金大中韓国大統領はこんな言葉を贈っています:

殺身成仁
- 身を殺して仁を成す -

儒教の開祖、孔子の言葉です。


 ◆ 孔子出生にまつわる秘話


紀元前552年、孔子は山東省、 の国 昌平郷の陬邑という小さな村に生まれました。姓は「孔」、名は「丘」。しかし、孔子が「孔丘」と呼ばれるようになったのは、孔子が孔家から認知された17歳頃のようです。それまでは何と名乗っていたかは不明であり、とにかく孔家から認知されるまでの間は行き来も途絶え、父の墓がどこにあるかさえも知らないという母と子二人の大変貧しい暮らしであったようです。孔子誕生の11年前には、奇しくもインドで釈迦が誕生しています。日本では卑弥呼が現れる遥か800年前のことでした。 では、孔子出生にまつわる秘話についてお話するために、最古の伝記 司馬遷の『史記』を紐解いてみましょう:

「紇*1、顔氏の女*2と野合して、孔子を生む。」 “野合”-孔子は結婚を許されぬ男女から産まれた子でした。この辺りの事情に関して『史記』は、“徴在 ちょうざい は尼山にある巫祠 ふし *3の巫女である。それは顔氏の巫児 ふじ *4である”と記しています。つまり、彼女は家祀 かし *5に奉仕するために家に残ったため、男女関係を持つことは禁じられていました。その女性が子供を産んだというのですから、「野合の子」という事実は、いつまでも孔子につきまといました。世間からは白い眼で見られ、孔家に認知されてからも、世の人々の偏見と虐げられた貧困生活など、孔子に対する世間の目は決して暖かいものではなかったようです。

*1 孔子の父 孔こつ、字を叔梁 しゅくりょう
*2 孔子の母 顔徴在 がんちょうざい
*3 神を守るほこら
*4 結婚しないで家に残り、巫女となった女性
*5 先祖を祭ること


 ◆ 吾少 われわか くして いや


史記によると、孔子は三歳で父と死に別れた後、母のもとで極貧の日々を送ったようです。幼い孔子は巫女たちの間で育ち、お供え物の俎豆 そとう を遊び道具として育ちました。そして、年を重ねるうちに葬式の礼などに雇われて、葬儀のことなどを学んだと考えられています。当時の葬式の儀礼は難しいものであり、複雑であったため、長じてそれが自らを助ける学問になったようです。貧しいがゆえに必死で働いて、生きる糧を得ようとした…。その貧しさのなかで、世間を生きぬく道を必死で模索したに違いありません。そのような記述は『論語』の中にも見られます:

吾少くして賤し。故に鄙事 ひじ に多能なり
(中略)吾 もち いられず。故に芸あり
子罕 かん 第九
訳) 若い頃は貧困で、生活のためにさまざまな仕事を
せざるを得なかった。そのために、つまらぬ仕事をいろ
いろ覚えてしまった。用いられることも少なかったため、
なんでもできるようになってしまった。

それは貧しさゆえに物心つくとどんな仕事でもやらなくてはならず、何でも出来るようになったという告白でした。しかし、その中から不朽の意志が生まれてきたことは容易に推測されます。『史記』の中にも、「孔子貧しく且つ いや し」の言葉があります。そのような境遇の中で、孔子は学問だけでなく、社会や人生についても学んだのでしょう。


 ◆ 生きる糧としての学問 - 十五にして学を志す -


孔子の生きた紀元前六・五世紀当時、中国大陸は分裂し、各地で国盗りの戦いが繰り返されていました。極貧に苦しむ孔子の目に映っていた光景…。それはすべての秩序が崩壊、混乱の極みにある時代そのものでした。人の心は乱れ、人の命は風前の灯のようにはかなく、市場では義足が飛ぶように売れる、そんな時代だったのです。孔子は思いました…。“なぜ、世はこれほどまでに乱れているのか?なぜ、我々庶民はこれほどまでに苦しまなければならないのか…?”そこで孔子は、当時、貧しい出自を克服し得る唯一の手段であった学問で、立身出世の道を模索することを決意します。

 志を立てた孔子。しかし、貧しい彼に私塾で学ぶだけの余裕はありませんでした。「学に志す」とはいっても、周囲に教えを請う先学の師もいないし、当時のことを考察するならば、読むべき書物もなかったと想像できます。そこで孔子は母の近くで「礼」について学び、周囲の人々に教えを請いました。孔子の身につけた学問とは、裕福な人生を送った貴公子の机上の学問ではなく、生きる糧としての学問、逆境の中を苦労して身につけた実学でした。だからこそ 、後年の彼の言葉には一層の説得力があったのです:

貧にして怨むことなきは難く
富て驕ることなきは易し
憲問第十四
訳) 貧乏でも怨みがましい心を持たないのは難しい。
それに対して裕福になっても驕り高ぶらないのは
易しい。なんでもできるようになってしまった。

そんなとき、孔子の心を躍らせる知らせが飛びこんできます。魯の国が広く高官の人材を求めるため、人材抜擢の催しを行うというのです!そこに17歳となった孔子も駆けつけるのですが…。
「貴様のような小僧に用はない!」
この言葉と共に、孔子は会場の外に叩き出されてしまいます。孔子を追い出したのは、陽虎という男。孔子と容貌がそっくりで、後に孔子の運命の岐路に再び現れることになる人物でした。孔子はこの時はまだ母の喪に服していました。礼を学ぶ孔子は、そのような席での自身の処し方を自覚していたのでしょう。この時の陽虎から受けた屈辱感は、かえって孔子の学問に対する意欲に火をつけたといわれています。孔子と陽虎ーこの二人は共に背丈が高く、風貌も似ていたようです。更に乱れた世の中を改革しようとする気持ちも同じでした。違うのは、改革に於いて陽虎は武力を持って行おうとしたのに対し、孔子は「仁」の道を説いて変えようとしたことです。この二人は永遠のライバルであり、孔子の一生は、ある意味ではこの陽虎との対決であるとも言えます。



 ◆ 孔子の結婚と子供


孔子は母が亡くなった後、十九歳で結婚をし、「 」(字は伯魚)と名づけた子供をもうけました。孔子の妻となった女性は宋の幵官 けんかん 氏という女性ですが、彼女の略歴などは記録にありません。孔子は子供が生まれて間もなく、妻と離別したという説もあります。孔子自身の略歴もないほどなので、妻が孔子といつまで連れ添ったかの記録もありません。それで離婚説が出たのでしょう。儒教では離婚はタブ-なので、この辺はあまり追求しなかったのでしょうか?家庭を平和にできない者が、天下国家を平和にすることなどできないと難く信じているがゆえに、孔子の離婚は隠しておきたかったとも考えられます。しかし離婚をしたとしても、孔子自身の人格を左右することはできません。そのような苦汁をなめたからこそ、人生についての深い考えも出てきたと見ることのほうが妥当です。


 ◆ 三十代の孔子 - 三十にして立つ -


孔子の実力が世に知られるようになったのは、30歳を過ぎてからのことでした。その頃には「礼を知る者」との評判が世に伝わり、弟子もいたようです。しかしながら現状に飽き足らない孔子は、34歳頃には自らを更に磨き上げるために周都という都市に留学し、「礼」について深く学びました。その時孔子は、老荘思想で名高い老子に出会っただろうと『史記』は述べています。留学先の周都で、孔子は数年間に及び自らの思想に磨きをかけてゆきます。そして、いつしか周囲に並ぶ者のいないほどの知恵と教養を身につけるまでになっていました。やがて彼は決意をします。この戦乱の世を変え、礼によって国を治める政治家として立つのだ!と。
それは孔子の目標がはっきりと定まった瞬間でした。弟子たちとともに自らを活かす仕官先を求め、孔子の長き放浪が始まります。まず彼が目指したのは、祖国魯と国境を接する大国『斉』でした。斉の国で君主に謁見を許された孔子。そこで景公に政治の要道を聞かれた孔子はこう答えます:

君は君たれ。臣は臣たれ
父は父たれ。子は子たれ
顔淵第十二
訳) 君主は君主らしく、家臣は家臣らしく、
父親は父親らしく、子供は子供らしく生きることだ。


 ◆ 善哉聖人 よきかなせいじん - 四十にして惑わず -


孔子がようやく世上に姿をあらわすのは、40もかなり過ぎてからでした。『史記』には当時の孔子の博学ぶりを示すエピソードが残されています。それによると、魯の国王季桓子が井戸の中から壺を掘り当てて中身について尋ねた時、孔子はなんとも学識に造詣のある返事をしました。そこで季桓子は孔子を「善哉聖人」と褒め称えたそうです。

この頃、魯を襲っていた欲望渦巻く混乱の極みに位置していたのが、他ならぬ陽虎。孔子を「小僧」と罵倒した男です。彼は、武力・知力ともに優れた謀反家として活躍していました。当時、宰相の家老だった彼は、政治的混乱に乗じて下克上そのままに実権を握りつつあったのです。

「私の所へ来い、優れた才能をそのままにしておくのは惜しい。月日はどんどん過ぎ去っていくぞ…」しかし、孔子はその申し出を拒絶するのでした。


 ◆ 為政者として


そんな矢先、陽虎が政権を握ろうとクーデターを起こし、失敗、国外に逃亡してしまいます。そしてその直後、魯の国王から孔子に意外な願いがもたらされました。「国の まつりごと を手伝ってはもらえまいか…?」
それは孔子にとって、政治の中枢に参画し、自らが信ずる正しい道を実現したいという宿願成就を意味しました。そこでまず据えられたのが、中都の宰の地位。無駄な歳出をカット、大幅な減税を行い、一年にして周囲の都市が真似をする善政を敷きました。『史記』は為政者としての孔子の経歴を次のように記述しています:

定公、孔子を以て中都の宰と為す
一年にして、四方皆これに則る
中都の宰より司空と為る
司空より大司寇と為る
訳) 定公が孔子を山東の中都の長官にしたところ、
一年後には近隣の村々が孔子の政令を手本とした。
孔子は次に土木を司る司空となり、
次には司法警察長官である大司寇となった。

当時の習慣としては、大司寇のような要職は、貴族またはそれに準ずる家柄の人が世襲として就いていました。その地位に孔子が就いたということは、破格の出世を意味します。




   「自分をつくれ」

孔子のリーダー論に、次のような問答があります。いつも元気な弟子の子路が聞きました。「先生、政治の心得は、どこにあるのでしょうか」孔子は答えました:

これに先んじ、これを労す
子路篇一
訳) 何ごとも人民の先頭に立って働け。
そして人民をいたわれ。

「自分が先頭に立って不惜身命で働け、そして皆には安心を与え、その労苦をねぎらいなさい」-これが孔子の指導者論でした。自分は楽をして人に働かせ、威張っているのは指導者ではありません。それは「にせ指導者」であるというのです。
また、同じ子路が「君子とは何か」を尋ねました。孔子は言いました:

己を修めて以て人を安んず
憲問篇四四あるいは四五
訳) 自分自身をつくり、人々を安心させよ。

子路は納得しません。何だか単純すぎる気がする。もっとすごい教えはないのかと思ったのかもしれません。「先生、それだけですか?」 孔子はぴしりと言いました。「自分自身を正しくつくって、民衆を安心させる。これは、(中国の理想の王とされる)堯や舜のような聖人でもむずかしかったのだ」と。 「自分をつくれ」、「人に安心を」 簡単に聞こえるかもしれませんが、これができれば指導者として最高なのだ、と孔子は教えたのです。


 ◆ 孔子面目躍如 やくじょ の「夾谷きょうこくの会」


孔子が一世一代の活躍をしたのが、「夾谷の会」とよばれる会見の場面です。定公十年春(前500年)魯の定公は斉と和議をし、夾谷の地で景公と会見をしました。『史記』によると:
斉の大夫の黎鉗 れいしょ が景公に「魯の国は孔子を登用した。その勢いが盛んになって、斉を脅かすようだ」と進言をしたため、魯に使いを出して和睦の宴を開くことにしたという。その時、定公は軍隊も連れずに無防備な状態で和睦の会に行くつもりでいた。孔子はその折に、会合の礼を補佐する長官の役だったので、定公に向かって「左右の司馬の武官を帯同してほしい」と進言をした。

さらに、『史記』はこの時の会見の様子を次のように書き表しています:

まず、簡略な礼式で会見した後、斉の方から「四方の楽」を奏したいと申し出てきた。斉の景公がそれを許すと、旌旄 せいほう という大きな旗やお祓い用の羽祓、さらには矛や両刃の太刀を押し立て、太鼓を叩きながら進み出て、景公に近づこうとした。しばらくして、斉は再び「宮中の楽」を奏したいと申し出て、俳優等が戯れながら出てきた。そして同じように定公に迫ろうとした。と、その時、孔子は自国の役人に命令して、舞人の手足を切らせたのであった:

景公 おそ れて動き、義の かざるを知る
訳) 景公は恐れおののき、義において魯に及ばないのを知った。

孔子は主君である定公の身の危険を察し、身をもって守ったのです。その後、斉の景公は魯の定公に謝して、それまでに魯から奪った国々を返還しました。魯は孔子の働きによって面目を保ったことになります。会見の席での舞楽は、一発触発の危機をはらんでいます。孔子の行動がいかに重要なものであったかは、これを考え合わせればおわかりになるでしょう:

定公問う、君、臣を使い、臣、君に仕うるには
これを如何にせん、と
孔子対えて曰く、君は、臣を使うに礼を以てし
臣は君に仕うるに忠を以てす、と
八_第三
訳) 魯の定公が孔子に尋ねた。
君が臣下を使い、臣下が君に仕えるのは
いかなる道によるべきなのか。
孔子が答える。君は礼をもって臣を使い、臣は忠をもって君に
仕えるべきでしょう。

「夾谷の会」で華々しい活躍をした孔子は、その後も魯の国で善政を広めました。孔子は自らの理想とするまつりごと政を実施したようです。孔子はまず、魯の国で政治を乱した少正卯 しょうほうせい という人物を誅罰し、宰相を補佐して、国政に参加しました。その後三ヶ月以内に、魯の国では商売をする者で暴利を得る者は居なくなりました。また男女の道を行く者は、自然と別々の道を歩くようになり、風紀が保たれました。さらに道に落し物があっても黙って拾って自分のものにすることもありませんでした:

子曰く、その身正しければ、令せずして行われる
その身正からざれば、令すといえども従わず
子路第十三
訳) 上に立つ人間が自ら正しい行いをしていれば、
命令しなくとも指導は自然に行き渡る。
逆に正しくないことをしていれば、
いくら命令しても従わないだろう。

こうして、魯の国を自らの理想とする国家に造りあげた孔子。しかしながら宿願であった為政者としての経歴は、中都の宰・司空・大司寇を務めた五十二歳から五十六歳までのわずか五年間しか続きませんでした。自らが作り上げた安定が、わずか数年間でもろくも崩れ去るとは想像すらしていなかったことでしょう。彼の政治はいつしか民衆に息苦しさとして受け取られ、非難がどこからともなく湧いてきたのです。そして、失脚。孔子は自らの政治を誰も求めなくなったことを知りました。彼は絶望と哀しみの中で決意をします。それは自らを登用してくれる国を探し、弟子たちを連れ、長い流浪の旅に出ることでした。


 ◆ 十四年にわたる亡命生活


長い亡命の時が来ました。孔子が諸国を旅している間に、魯の国では実権を握っていた季桓子が亡くなりました。季桓子は病の床で魯の国を想い、「昔、この国は栄えかけていたのに、自分が孔子を罪するようなことをしたために、逆に繁栄しなかった」と嘆き悲しみました。そして息子の季康子に「必ず孔子を召せ」と申しつけたのです。

その頃、孔子は陳の国にいました。亡命の旅が長く続くなかで彼は、どの国を訪れても自らの考え方を受け入れてくれそうもないことを自覚し始めていました。
「一体、天は自分に何を望んでいるのか…?」
悩み苦しんだ孔子は、人知れず天に向かい唾を吐きかけたこともあったといいます。
「私は人間の歩く道を歩きたい。私はただあたりまえの人間の道を、あたりまえに歩いてみたい。人間同士で苦しむだけ苦しんでみたい。そこに私の喜びも安心もある。濁った世の中であるからこそ、その中で苦しんでみたいのだ。」
だが、そんなある日、孔子は天からのメッセージに触れることになります!
「孔子よ、孔子よ、世の政治は何と衰えたことか。過ぎた過去にこだわっても無駄だ。今、権力を握っている者は悪党ばかりだから諦めなさい。しかし、これから未来のことはまだ間に合う…。」
過去や現在はもう手遅れだ、しかし未来はまだ間に合う…。孔子の中に雷光のような衝撃が走りました!その時、孔子の心に一つの言葉が静かに浮かび上がったのです。


 ◆ 五十にして天命を知る


天命…。
『論語』の中でも、「五十にして天命を知る」という言葉は特に有名です。この『天命』を、「人間にはどうすることもできない天の定めた運命」、あるいは「人間の限界を知ること」と解釈することは、今日では適当ではないようです。それよりはより積極的に捉え、「天から下された使命を知ること」あるいは、「天の見守る中で、人として努力すべき使命を知ること」と解釈する方が妥当でしょう。

孔子は、旅の途中で危険に遭遇したときにも「天之未喪欺文也、匡人其如予何」と述べ、落ち着いた態度であったと言われています。これは自分に使命を与え、自分の誠実な努力を見届けてくれる天を信頼していたからです。天が強い自信を与えてくれる究極的な存在であったことは確かです。天は孔子にとって、理性的な判断を超えた究極の存在でした。孔子はそれに対して、ただ厳粛に敬虔に関わりをもったのです。孔子にとって、天によって限界づけられる運命を知ることは、同時に自己の存在を保証するものでした。五十代の終わりに、自らを包む大きな存在に気付かされた孔子。天の意に従う…。孔子の心にかつてない平穏が巡っていました:

朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり
里仁第四
訳) もし、朝に自ら為すべき“人の道”を聞くことができたなら、
仮にその夜死んでも惜しくない。

この年紀元前484年、孔子68歳。約14年間の長い放浪の旅でした。魯の国を発つ時は、これほど長い旅になるとは夢にも思っていなかったことでしょう。また、自らを採用してくれる君主がいないことも、思い至らなかったに違いありません。しかし現実を前にして魯に帰り、学問で後進の指導に当たることを使命としたのでした。まさに:

七十にして心の欲する所に従えども
のり を踰えず
訳) もし、朝に自ら為すべき“人の道”を聞くことができたなら、
仮にその夜死んでも惜しくない。

の心境といえるでしょう。


 ◆ 孔子の晩年


魯の国に帰った孔子は、季康子の相談役のような立場で弟子たちの活躍ぶりを見守ったり、弟子たちを教えたりしました。『史記』は、孔子が弟子たちを教育している様子を次のように記しています:

孔子、詩・書・礼・楽を以て教う。弟子けだし三千

孔子の弟子はどんどんふくれ上がって、三千人もいました。その中で孔子は四つのことを教育しました:

子四を以て教う。文・行・忠・信*
*「仁」に至る方法。学問・礼行・忠恕・信義。

また、四つのことを絶ち得ました:

子四を絶つ。意なく、必なく、固なく、我なし*
子罕第九
訳) 孔子は人々が陥りやすい四つのものを断ち切りました。
四つとは、主観的な私意、必ず押し通そうとする
思い込みの心、自己の主義主張を難く
守って譲らない心、我を張り通す心。

*孔子の生き方を見てきた弟子たちが述べる孔子の姿。
孔子は「和を以て貴しと為す」と言っているように、人の和を最も大切にした人です。
しかし、この四つを捨て切れずにいたら、孤立した人間にならざるを得ません。
これは、「孔子四絶」として知られる一文です。

やがて孔子は、人生の晩年に自らが辿り着いた境地を次のような言葉で表現します:

子の曰く、我を知るなきか
天を怨みず、人を尤めず
下学して上達す
我を知るものは、其れ天か
どんな苦境にいたっても
運命をうらまず、他人を非難することもなく
ひとすじに修養して人格を高める。
天だけは自分のことを見ていてくれるのだ
憲問篇 五七五

そして彼が人間の生きる守るべき道として目指した高み…。それが「仁」でした。
「仁とはそれぞれが自らのいる位置・役割を自覚し、礼に基づきつつ、他者を思いやることなのだ!」
「仁(ジン)」という漢字は「人(ジン)」に通じます。また、「人」+「二(者)」で成り立っています。すなわち、「仁」の本来の意味とは二者関係、対人関係のことなのでしょう。孔子は、「仁」という言葉で理想の二者関係、対人関係のあり方を説いたのです。




  孔子における仁とは?

「仁」は孔子の中心思想です。「仁」とは人間がもつ普遍的な愛の心をいいます。そしてこの「仁」が最も純粋に現れるのが家族であるとして,「孝悌 こうてい (父母に孝行をし、兄によく従うの意)」をまず仁の実践の第一歩とするべきであると説きました。さらに、この家族道徳を広く天下・国家に広げるために「礼」を強調。「礼」は、単なる虚礼や形式的なものではありません。「仁」が人間関係の基本であるのなら、「礼」はそれを維持するための規範であり、人間の内面にある「仁」の具体的な表現方法です。孔子の主張した「徳治主義」とは、「君子」が「仁」の道徳によって民衆を導き、「礼」によって社会を秩序づけようとするものでした。

能く五つの者を天下に行うものを仁となす
恭・寛・信・敏・恵それなり
陽貨第十七
訳) それを問うなら、次のことをやっているか。
恭・寛・信・敏・恵の五つの実践だ。
それが身につけば、仁とは何かが自然にわかる。

これは、門弟「子張」との問答です。孔子はその定義の前に「お前たちは実際に、恭・寛・信・敏・恵の五つの徳を日常実践しているか。これが身についているのなら『仁』について当然わかるはずだ」と答えていいます。

きょう は身を慎めば、人から侮られることはない
かん は心を広く持てば、多くの人が集まってくる
しん は信用を重んずれば、仕事は任せてもらえる
びん はぐずぐずしないでテキパキと片付ければ
   仕事ははかどる
けい は人に恩恵を与える人ならば、黙っていても
   人を動かせる


 ◆ 孔子、没す


魯の国に帰ってからというもの、孔子は心身ともに安定した生活を送っているかのように見えました。しかしながら、その期間はたった一年に過ぎませんでした。故国に戻ってからというもの、孔子の周りで精神的に耐え難い不幸が相次いで起こったからです。

魯の国に戻った翌年、孔子の一人息子の鯉が他界しました。孔子70歳、鯉50歳の時のことです。続いて第一弟子の顔回、そして子路。子路は戦死でしたが、子路に続いて孔子もいよいよ最期の時を迎えました。
哀公十六年(前479年)4月11日。この年73歳となった孔子は、突然、高弟の一人である子貢に「謂水」という川が見たいといいます:
「すべてのものはこのように流れていく。夜もなく、昼もなく...」
そして孔子は運命という大河に身をゆだねるように、子貢に看取られ、静かに息を引き取ったのでした。


 ◆ 論語、弟子により編纂


孔子は自らの人生を通じて、こつこつと地上を歩きながら、天の言葉を語るようになった人です。しかし、天の言葉は語りましたが、彼には神秘もなければ奇跡もありませんでした。孔子はいわば、“地の声をもって天の言葉を語った人”だといえます。

孔子の死はどのようなものであったのか。また、その瞬間を多くの弟子たちはどのように受け止めたかについての叙述は、『史記』にも『論語』にも書かれていません。しかしながら、孔子の教えは弟子たちによって「論語」の一冊にまとめられました。そしてそれは永遠の命を保つかのように、2500年後の今もなお歴史の濁流に飲み込まれることなく生き続けているのです。

それでは最後に、孔子の言葉のうち最も感慨深いものを記し、彼の生涯についてのお話を終えることにいたしましょう。

仁は遠からんや。我、仁を欲すれば、ここに仁至る
述而第七
訳) 仁は誰の心にもあり
仁を願う自分自身の心が呼び起こすものである。



孔子の一生

子曰く、吾十五にして学に志す
三十にして立つ
四十にして惑わず
五十にして天命を知る
六十にして耳従う
七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えす

訳) 私は十五歳頃から
   礼楽などの学問を学ぼうとした。
三十歳頃は、その礼楽などについて
   自分なりの見識が定まった。
四十歳頃には、物事がはっきり理解できて
   迷うことがなかった。
五十歳頃には、天が私に命じた運命が
   何であるかを知った。
六十歳頃は、何を聞いても
   それに素直に従う態度が出来た。
七十歳頃には、心の欲するままに行動することが
   仁の道に叶っていることが分かり、
   真の自由を楽しめるようになった。