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誕生にまつわる秘話

キリストの愛は
生きている!


小鳥への説教

観想の生活

十字軍の戦場へ

ルカ伝十章

聖クララ

兄弟会と姉妹会

聖痕−スティグマ−

恵みへの賛歌

平和を求める祈り

ビューティフルワールド 20

〜 アッシジの聖者 〜

 

聖フランチェスコ

【Franchesco d'Assisi : 1181−1226 】

聖フランチェスコは中世イタリアの最も誉れ高い聖人です。
その精神の核は言うまでもなくキリスト教であり、その深みの極点にいるのが彼なのです。
別のいい方をすれば、キリスト教の歴史に新局面を開いた人物といえるかもしれません。
ではどのようにして開いたのか...。
一つ確かなことは、掟から抜け出て、人間感情を解放したことでしょう。
キリスト教が形式的になってしまっていて、その中に人間感情が縛られていた当時、
“イエスは規則など愛せよとは言わなかった、人間を愛せよと言った、
動物や鳥、木々や花、山や空を愛せよといった”
そうフランシスコが唱えたのは確かなことです。
今回のビューティフルワールドは、国境や教派を超え世界の人々から
敬愛されているアッシジの聖人フランチェスコをご紹介いたします。


Franchesco d' Assisi

 ◆ 誕生にまつわる秘話


フランチェスコの誕生当時を振り返ってみましょう。彼の父ベルナルド−ネは大きな布地商人で、遠くフランスにまで商いを拡げていました。彼はフランスが好きで、フランス人の妻を迎えました。その縁あって、長男にフランチェスコという名前をつけたのです。この母親が彼を身ごもっていた時に、預言者めいた旅人が訪ねてきました。その人は、「立派な男の子が生まれる、わが主の教えに人々を目覚めさせ、習わせるような、そのための模範となるような子が生まれる」と告げました。そしてさらに、「ですから奥様は馬小屋に入ってお産をなさるように」と言い添えたのだそうです。母親はその言葉を受け入れ、イエス・キリストが誕生された時と同様に、産室を馬小屋に変えたと言われています。

アッシジはローマに対して従順、忠誠な土地柄でした。したがって、フランチェスコも物心ついた頃には機会を得てローマへ行き、教皇のお膝元を見たいと思っていました。そして、やがてその機会を得てローマを訪れるのですが、あまりに乞食が多いことに失望します。そして、本山がこんな有り様でいいのかと嘆きつつ、一人の乞食に申し出て、衣服を取り替えるのでした。彼はアッシジの大家の子息でしたから、贅沢な衣服を着ていたに違いありません。しかしながら、それまでは宿屋での応対も甘かったし、持ち合わせがない時には借りることができたのに、貧しい身なりになったその瞬間から、一切が許されなくなってしまいました。ひもじくなり、街角に立って、「パンをください、小銭をください」と物乞いをします。しかし、驚くほど恵む者の少ないことを実感させられるのでした。

アッシジはローマカトリックに対して志の厚い街でしたし、フランチェスコの父親も応分の寄付を欠かさず、カトリックのために尽くしていました。しかし、フランチェスコはしきたりに従った良き市民になろうとする気はありませんでした。彼は完備した大聖堂よりも、街はずれに見捨てられた教会を思いやりました。そこには世捨人然とした老司祭が、貧しさに耐えて住んでいたからです。そして彼はそこに日参し、お金や物を運んだり、壊れかけた建物を修繕したりしたのでした。また、立派な鎧は友人にあげてしまうし、衣服は乞食に恵む、しかも親の金を持ち出す...。このような彼の振る舞いは郷里のアッシジまで聞こえ、フランチェスコはまともではない、とまで噂をされたのです。

やがて我慢の限度を超えて怒った父親は、土地の司教に訴え出ます。「お前が私のところから持ち出した金は、自分で稼いで返せ」と。フランチェスコに返す当てはありません。恥じ入って長い間黙っていた彼は、やがて立ち上がると壁掛けの中へ隠れ、素っ裸になって、着ていた服を父親に渡しました。傍らにいた司教は慌てて、すぐさまありあわせの布でフランチェスコの腰を覆ったといいます。「稼いで返せ」と言った父が期待したのは、「働いて返します」という答えであったはずです。しかし息子は、こうした仕方で「私はあなたを継がない」と言い切ったのです。商人にもならない、百姓にも武士にもならない、司祭にも司教にもならないー。世間のどの身分にも属さないことを宣言しているかのようです。


 ◆ キリストの愛は生きている!


実は、この当時のフランチェスコは密かに悩んでいました。というのは、施療院にいる癩者に接吻しなければならないと思い込んでいたからです。彼はこの施療院に通い、世話を引き受けていました。しかし接吻となると、大変な勇気が要ります。初めは臆しながら癩者に近づきますが、近づいては逃げることを繰り返します。そして遂に決意して接吻をしたのです。この瞬間が転機をもたらしました。癩者は、フランチェスコの抱くキリストへの豊かな愛が自分に伝わるのを感じました。そして、率直に「ありがとう」と礼を述べます。一方、フランチェスコも相手の愛が自分に流れ込むのを感じたのでした。後に彼は、この時のことを「その接吻は自分にとってこの上なく甘美であり、心満たされるものであった」と回想しています。

以前から、若いフランチェスコは「キリストの愛は生きている、だが、どこに生きているのだろうか...」と探しあぐねていました。癩者に接吻するようにという神の促しがあったのでしょう。そして遂に、癩者のなかにキリストの愛が生きているということを知ったのです。こうして福音に確信を見出した彼は、祈祷の最中に聞こえてきた「早く言って私の家を修繕しなさい」という神の声に従い、それまでの裕福な生活を捨てて無一文になり、神と人々に奉仕する生活に入ることを決意します。古い教会堂を修理し、人々に神の言葉と回心を告げ、労働をして生活の糧を得、それが得られない時には托鉢をするという生活を自らが選択したのです。全ては神に対する愛ゆえになされたことでした。

やがて、フランチェスコの周りには、彼と志を同じくする若者たちが集まるようになりました。彼らは会則に基づいて、貧しさのうちに生活をし、祈りに時を過ごし、神の言葉と回心を告げ、平和について語り、病人の看護と労働に従事するようになります。そして、この小さな共同体が12人になった1210年、当時の教皇インノセント3世から「原始会則」と呼ばれる会則の認可と修道会設立の許可を得ます。こうして、「小さき兄弟会(Ordo Fratrum Minorum)」という修道会が設立されたのでした。


「会則の認可」 : ジョット
聖フランチェスコ大聖堂


 ◆小鳥への説教


キリストの福音を身に付けると、話しても、行動しても、必ずそれが現れます。事実、彼の周囲には福音的な雰囲気が漂っていました。その独特な雰囲気とは、あるいは大自然の中で育まれたと言えるかもしれません。というのも、彼の慰めであり、素直な友人であったのは大自然だったからです。彼は、“キリストは自然をこういうふうに眺めていた、自分も同じ視点から眺めよう”と決意をし、多くの歌を歌って神を賛美しました。その意味において、フランチェスコはキリスト者であると同時に優れた詩人であったと言えます:

『小鳥への説教』
小鳥よ、あなたたちはすばらしい衣服を
身に付けている
私はよれよれの修道服を着ているが
これとて自分で手に入れたものだ
ところがあなたたちの衣服は
自分で心配したものではない
あなたたちは透明な声で鳴くが
それもまたいい声になろうとして
なったわけではなく
神様がくださったものだ
素直なあなたたちには大きな恵みがある


「小鳥に説教する聖フランチェスコ」 : ジョット
聖フランチェスコ大聖堂

キリストは、「空の鳥を見なさい、種を播きもしないし、刈り入れもしない、倉に収めもしないのに、天の神は鳥を養ってくださるではないか」と言われました。また花についても、「野の百合を見なさい、百合は紡ぎもしないし、織りもしない、それでもなお、かつてソロモンの王宮で優雅に着飾った人々も、この百合ほどに装うことはなかったではないか」と言われています。フランチェスコにとって、聖書のこの言葉はそのまま実感でした。自然を自分の視点で捉え、詩にしたので、彼の歌は純粋で素朴な人々に影響を与えました。したがって後世のアッシジ詣りは、そこへ行って自然を賛美するということでもありました。この点からいうと、日本の古典詩人たちが山川草木、花鳥風月などの清らかさから始まって、わび、さびなどの諦念を感じさせるのに対して、フランチェスコの場合は、ひたすら自然を讃える喜びが強く、ダイナミックな情感に溢れているかのようです。


◆ 観想の生活


フランチェスコの信仰生活には、大別して二つの傾向が見られます。一つは隠修士としての、そしてもう一つは伝道師としての在り方です。まず隠修士としての在り方ですが、中世キリスト教の聖者は、大勢としてこの生活に赴きました。山に籠ったり砂漠に隠れたり、まったく独りの世界に入り、困難に耐えて、神を想い見るのです。フランチェスコにとってもこうした孤独は変わらぬ誘惑であったらしく、しばしば観想生活に入りました。聖書を見ても、キリストも荒野の40日間をはじめ、何度か独りになっているし、洗礼者ヨハネについては言う迄もありません。アッシジの場合は周囲に砂漠がありませんし、荒れ地らしい荒れ地もありませんから、その代わりにリエティの谷やラ・ヴェルナ山の岩の中に分け入りました。フランチェスコは、鉋をかけた板の家は贅沢だ、葦と粘土の小屋がいい、狐のように岩の穴に住むのが一番いい、と思っていたようです:

これこそ私が自分と兄弟たちに課す
生活の仕方です
私は長く生きられませんから
神のみ前にひとりとどまり
罪の身を泣きたいと思います
兄弟よ、必要だと思ったら
パンと水を少し運んでくれるのはいい
しかし誰かがきたら
あなたがたが応対してください
誰もここに来させないように...

しかし、それではいけないという反省もまた、フランチェスコにはありました。キリストがガリラヤ湖畔で素朴な漁師たちに話しかけ、奮い立たせたり、卑しいと思われていた人々に希望を与えたり、病人を癒したりしたように、人々の救いのためには骨身を削る思いもしなければならない。そのために力を尽くさなければ、キリストを裏切ることになるという思いです。フランチェスコは、寝食を忘れて歩きました。実際、フランチェスコはあまり眠らなかったそうです。その理由の一つが、“キリストよりも豊かであってはならない”とする自戒であったことに違いありませんが、もう一つには伝道の計画で頭が一杯だったため、座って仮眠をとり、目覚めればすぐに活動に入ることが多かったためでした。私たちの生活においては、気のおけない家族や友だちとの会話、ご馳走、あるいは柔らかなベッドが待っていて、そのことによって翌日の激務に備えます。ところがフランチェスコは、肉体が快適であることを自分に許さないのです。私たちの常識からすれば、緊張の連続なのです。しかしそれでいて、彼は人が味わい得る『最も深い境地の慰め』を得ていたのでした。


「荒野の聖フランチェスコ」 : ジョヴァンニ・ベルリーニ


◆ 十字軍の戦場へ


1220年代に入ると、フランチェスコ教団の5人の兄弟がモロッコへ布教に赴き、殉教するという事件が起こりました。その報告がアッシジにもたらされた時、フランチェスコは「私はこの5人を、心から真の兄弟と思う」と叫んだとも、あるいは「ひとの殉教をではなく、自分の殉教を誇るようにしよう」と叫んだとも伝えられています。 実はこの事件の2年前、フランチェスコはイスラエルに行っているのです。この時代は十字軍の遠征がしきりに企てられたし、フランチェスコもまた「殉教」に対する強い思いを抱いていました。1219年、フランチェスコは軍用船に乗って、アドリア海岸のアンコーナ港を発ち、聖地へ向かいます。聖地は折しも大激戦の最中で、ダミエッタの要塞ではイスラム軍2千人余りが戦死したり、続いてキリスト教軍の大敗北があって5千人が死傷していました。このような戦場に姿を現したフランチェスコが、何の悲壮感もなく殉教の喜びを説いたのですから、兵士たちはさぞ感動したことでしょう。事実、宣教は大きな成果を挙げました。しかしフランチェスコは、戦意を高揚しようとしたのではありません。敵の本営にもはばからずに入って行って、守備兵に取り次ぎを頼み、サルタンに会見しているのです。どんな言葉で説いたのか、とにかくサルタンにキリストの教えを説きました。想像を超えた不思議な光景です。サルタンは強く心を動かされたのでしょう。「いずれの信仰が神のみ心にかなうかを、神が私に教えてくれるように祈ってほしい」とフランチェスコに頼んだと伝えられています。


◆ ルカ伝第十章


フランチェスコはひたすら福音書に従いました。しかしながらその結果、浮き世離れした、雲の上を歩いているような人になったかというと、そうではありません。戦場での振る舞いでもわかるように、抜群の行動力を持ち合わせていました。だれよりも世の中を知っていましたし、人間に対する洞察力も優れていたといえます。フランチェスコ会の規則になった聖書の一部を引用してみると、この辺りの彼の信仰観の一端に触れることができます:

行け、いくがいい
私がお前たちを旅に出すのは
子羊を狼の群れの中へ
送り込むような気がするが...
いいか、お前たち、財布もサンダルも
携えてはならない
途中で出合う人には挨拶してはならない
人の家に入る時には、何より先に、
その家が安全であるように祈れ
もしその家に平和の子がいれば
お前たちが祈った安全はその家のものとなろう
そうでない場合には
安全はお前たち自身に帰るだろう

このルカ伝第十章のキリストの言葉を読めば、伝道とはきれいごとではないということがわかります。厳しく、現実的な目配りが利いています。勿論フランチェスコはこの教えを浅く受け取ったり、現実的な側面のみを重視したりはしていません。最善の理解をしているのですが、聖書が人間性の洞察をも教える本であるという本質は、深く信じれば信じるほど現れるに違いないのです。


◆ 福音に生きる


このように、ひたすら福音に生きようとしたフランチェスコにとって、修道会がたちまちのうちに大きくなっていったのは、驚きとともに戸惑いであったことでしょう。彼は、気の合った兄弟たちと神の僕となり得る小さなグループを作りたいと思っていただけなのです。自分に共鳴して集まった大勢の兄弟たちをどのように導くべきか、彼は痛々しい程考えあぐねました。怖れを抱いて神に祈り、お示しをいただけるように願いました。本来、孤独を愛した彼でしたが、大勢の兄弟たちに囲まれると、かえって孤独になったともいえます。

兄弟のなかには、フランチェスコとは違った理想を抱いている者も現れました。例えば、組織が現実的にしっかりすることーそのためには、会の中から高位の聖職者や博学の学者が排出することーを望む者もありました。一方、フランチェスコは、単純で貧しく無学であることに徹するのが神を知る所以だと考えていましたし、しかも不和がきざすことを何よりも怖れていました。したがって、彼の心のうちはいつも不安で一杯であり、全てを神の御手に委ねる祈りを捧げ続けていました;

主よ、あなたの下さった家族を
あなたにお任せいたします
もう、自分には導くことはできませんから...


◆ 聖クララ


修道生活に入る前の若いフランチェスコは、友達におごるのが好きで、派手に騒ぐことが多かったのですが、酒宴の最中に独り道に出て、星を眺めていることもあったそうです。その彼が「何を考えているのか」と問われると、「神のことを考えている」と答えます。「嫁さんのことでも考えたらどうか」とからかわれると、「結婚か、おれは神とめあわされることを思っていたのだよ」と言ったというのです。そんな彼の前にクララという娘が現れます。クララはアッシジの貴族の娘ですから、ブルジョワの息子フランチェスコよりも高い身分であったと思われます。ところが彼女は気まぐれな青年、時には狂気の青年とさえ見られたこともあるみすぼらしい修道士フランチェスコに心から傾倒し、彼と理想を分かち合うことを決意します。そして、フランチェスコに「私もあなたのようにひたすらキリストを慕って生きたいのですが、どうしたらいいでしょうか」と相談します。フランチェスコは忠言を与えて、「あなたの抱いている夢を捨てなさい、世の中の喜びをすべてあきらめなさい、そして、できるだけ貧しい生活に入り、祈りと禁欲を続けなさい」と言います。彼女は感動し、1212年3月のある日、日曜日のミサに参列した際に両親や兄弟に申し出て、裕福な生活と訣別することを宣言します。そして、全くフランチェスコに倣って生涯を終えるのです。フランチェスコ会が西欧キリスト教世界に歴史的な影響を及ぼし、後世大修道会になったように、聖クララ会も代表的な女子修道会になります。この両巨頭とでも呼ぶべき2人はアッシジの隣人同士でした。


◆ 兄弟会と姉妹会


聖フランチェスコと聖クララ。この2人はキリスト教の歴史に偉大な足跡を残した二大聖人ですが、俗世をいとも容易く超越し、常に崇高なことのみを考えているかというと、決してそうではありませんでした。クララが修道生活に入った当時、フランチェスコは幼稚とも思えるような悩みを持ちました。つまり、女性が修道士たちを混乱させる、というのです。フランチェスコ会創設当時はフランチェスコ自身も若かったし、そこに集った人々も同世代の若者たちだったので、クララの会がこの青年グループを刺激し、混乱させはしないかと考えたのでしょう。しかし、私たちが異性のことで思い悩むのとは次元が違うのは明らかです。もともとフランチェスコは二十歳の頃、キリストを自分の配偶者とすると言っています。これは、福音書の中の花婿の譬えにならってのことでしょう。俗世を超越しようとして、そのような考えに思い到ることには彼の人間味を感じますが、その人間味が、今度はクララとの姉妹たちに対して怖れを抱かせるのです。これは、“高い次元の貞節”といってもいいかと思います。自分の中で一筋であった修道心が揺らいではならない、と厳しく自戒します。そして兄弟たちも戒めます。そして、男の会と女の会との間に厳しすぎるほどのけじめをつけるのでした。


「クララの肖像」 : シモーネ・マルティーニ
聖フランチェスコ大聖堂

その“けじめ”の表れの一つとして、フランチェスコの生涯終焉の際の逸話があります。病いが重いと自覚すると、彼はクララのそばへ行きたいと言い出すのです。そこで、兄弟が彼女のいるサン・ダミアーノの小さな女子修道会に連れて行くのですが、なぜか2人はお互いに会おうとしません。そしてフランチェスコは、修道会の傍らにある葦の小屋に入ってしまうのでした。そこに彼の心の平安があったのでしょう。彼は独り横たわって、神への賛美の歌を歌っていました。この有り様に兄弟たちは困惑します。当時、す でに広くヨーロッパ世界の尊敬の的であったフランチェスコが、葦の小屋に寝て、歌を歌っているのは、その声価を問われ兼ねないからです。またそこはひどい所で、夜になるとネズミが病人の上を走り回ったそうです。病篤い聖者がこのような場所にいたとは、悲劇的な感じさえ抱きそうになります。そして暗い、どん底の心境を想像したりするのですが、当のフランチェスコの気持ちは安らかで、しかも光に満ちていました。その彼がこのような状況で歌ったのが『太陽の歌』でした:

『太陽の歌』

高くまします、いつくしみ深い全能の主よ
あなたには賛美と栄光と名誉
そしてすべての祝福があります
あなたはそれにふさわしいからです
あなたのみ名を呼ぶにふさわしいものは
この世にひとりもおりません
賛美を受けてください、私の主よ
あなたがお造りになったすべてのものの
賛美を受けてください
とくに私の兄弟、太陽の賛美を受けてください
太陽は美しい、大きな輝き
高くましますあなたのお姿は
太陽の中に伺うことができます
賛美を受けて下さい、私の主よ、私の姉妹
月と星の賛美を
あなたは空の中に、月と星を明るく美しく
お造りになりました
賛美を受けてください、私の主よ
私の兄弟、風の賛美を
大気と雲と晴れた空の賛美を
これらの兄弟のもとに
あなたはすべての生き物を養ってくださいます
賛美を受けてください
私の主よ、私の姉妹、水の賛美を
水は役立ち、つつましく清らかです
賛美を受けてください
私の主よ、私の兄弟、火の賛美を
火を使ってあなたは夜を照らしてくださいます
火は美しく楽しく、勢いよく力強いものです
賛美を受けてください
私の主よ、私の姉妹、母なる大地の賛美を
大地は私たちを育て、支え
たくさんの果実を実らせ
きれいな花と草を萌え出せます
賛美しましょう、歌を捧げましょう
感謝の歌を捧げ、深くへりくだって
主に仕えましょう

『太陽の歌』は、大自然がこぞって神を賛美しているとも、大自然を通してフランチェスコが神を賛美しているともいえます。この詩を力あるものにしているのは、フランチェスコの“自然に対する確実な把握”に違いありません。例えば、“水は役立ち、つつましく清らかです”という一節を読んでも、簡単な言い方にもかかわらず、その性質がよく表現されているのに驚かされます。粗末な修道服に縄の帯を締めたフランチェスコは、来る日も来る日も大自然を肌で感じていました。そして、神の前に余分な道具立ては要らない、あるがままの“物”こそ、この上ない仕方で神を讃えていることを確信したのです。 この『太陽の讃歌』で神を賛美する歌を歌ったフランチェスコは、続いて『死の讃歌』を歌います。そして、キリストの教えに一致してこの世の死は復活の栄光である、と明るく親しく死に呼びかけるのでした:

賛美を受けてください、私の主よ
私たちの姉妹、肉体の死の賛美を
生きるものはすべて
この姉妹の手から逃れられない
大罪を背負って死ぬ者は不幸ですが
あなたの聖なる御旨を
行いながら死ぬ者は幸いです
第2の死に損なわれることは
もうありませんから...


◆ 聖痕ースティグマー


晩年のフランチェスコは、熱心な後援者より送られたラ・ヴェルナという山で過ごすことが多くなりました。キリスト教の聖者たちの多くは、洞窟の静寂と孤独の中で力を育みましたが、フランチェスコもその例にもれません。ただ彼の場合、ひたすら小さな自己、怖れおののく自己をみとめるのです。弱さの自覚が大きな力になるという逆説がここにあります:

愛する主、神よ、あなたはだれでしょうか
みじめな虫けらのような僕よ
私はだれなのでしょう
わたしの最愛の主よ
あなたを愛することが私の歓びです
主なる神よ、あなたにこの心と体を捧げます
そしてその方法さえわかるなら
あなたへの愛ゆえに
それ以上のこともしたいのです

1224年、フランシスコ42歳、9月の未明のことです。古伝によると、この時のフランチェスコは、いつもの如くキリストの受難さながらの祈りを捧げていました。キリストは苦しんで祈り、血の汗を地面に滴らせながら、「神よ、思し召しならば、この苦い杯を私から取り去ってください」と申し出ます。「苦い杯」とは、「真近に迫っている十字架上の死」、または「克服しきれない死の苦しみ」ということです。フランチェスコの場合も、祈っているうちに主の十字架上の死が見えてきたと言われています。つまり、フランチェスコは、祈りながら受難のキリストと同じものを見たというのです。さらにキリストの傍らに天使が来て、苦しみ抜く魂を励ましていたと書かれていますが、フランチェスコもまた自分のまわりに天使がいるのを見たのでした。そして、この試練のひとときが過ぎると、釘のようなものが手足を貫いた痕が見え、右の脇腹には槍で突かれた傷が現れたというのです。こうして、キリストとの親密な一致によって魂の平和と歓びを体験し、その印として聖痕を受けたのでした。しかし、フランチェスコはそのことを誰にも言わなかったし、手も足も見せなかったので、兄弟たちは、彼が足の裏をなるべく地面につけないようにして歩いていることと、彼の衣服を洗濯しようとすると血がついていることを知って、異変を感じていただけでした。彼の体に現れた5か所の傷を認めたのは、彼が亡くなってからのことだったというのです。


◆ 恵みへの讃歌


聖痕を受ける前のフランチェスコは、当初の理想から遠ざかりつつある兄弟会の前途を思い、その失意を乗り越えようとして、キリストの味わった苦痛と、それにもかかわらず燃え続けていた愛を自分にも持たせて欲しいと祈っていました。ところが聖痕を受けたあとのフランチェスコは、特に大きな調和に身を委ねているように思えます。聖痕を受けた直後に歌われたという『恵みへの讃歌』はこうした彼の心境をよく物語っています:

あなたは聖い神、神々の主
軌跡を行いたもう唯一の神
あなたは強く、大きく、高くまします
あなたは全能、天地の尊い父、そして王
あなたは三位一体の主、神々の主
あなたは善、欠けることなく
最高の善、主、生ける真の神
あなたは愛、知恵、謙遜、忍耐
あなたは美、安寧、平和、歓び
あなたは我らの望み、正しさ、慎み、
ありとあらゆる富
あなたは柔和な我らの支持者
変わらぬ身方、保護者
あなたはわれらの避難所、力
あなたは我らの信、望、愛
あなたは我らの魂の甘美な慰め
あなたは無限の善、この上なく
偉大な主、神、全能、善、慈悲
そして我らの救い主

やがて、フランチェスコはラ・ヴェルナ山を立ち去り、人里へ下りて行きます。その際、山に居残った兄弟たちが麓まで見送りに下りてきたところで、彼は次のように歌います:

最愛の子らよ、安らかに暮らしなさい
体は別れても、心は残して行きます
私は神の仔羊、
レオ―ネとポルチウンクラへ行きます
もうこの山には帰りません
さようなら、さようなら、さようなら、人々よ
清い山よ、さようなら
ラ・ヴェルナ山よ、さようなら
天使の山よ、さようなら
さようなら、最愛の兄弟達よ
おまえは啼いて、私の眼を醒ましてくれた
何かと心配してくれて、本当にありがとう
その下で私が祈った大きな岩よ、さようなら
もう、おまえのところに戻ることはない
さようなら、聖マリア聖堂よ
永遠の言葉の母であるあなたに
わたしのこの息子たちのことをお願いします

神とは何と偉大で恵み深いのでしょうか?だとすれば、その神の姿に最も似せて造られた人間とは、一体何ものなのでしょうか?「天に宝をつみなさい、あなたの宝のあるところにあなたの心もあるのだから」とはキリストの言葉ですが、その宝とは何か、そして宝を天につむ理由が何なのかを知ろうとするとき、富も名誉も財産も捨て、極貧のなかにありながらも、とびきり豊かな心を持ち続け、永遠の命の国に入ることを赦された聖フランチェスコの人生が、俄然深い意味を帯びて私たちの意識に浮上します。

彼は真に神を愛した人間でした。彼はフランチェスコ会(小さき兄弟の会)、クララ会、第三会の3つの修道会を創立しました。そして1226年10月3日夜、ポルチェンクラ聖堂の側で詩編141『私は声を出して主に叫ぶ』を唱えながら死を迎えました。44歳。そしてその死後、多くの奇跡がフランチェスコの取り次ぎによって起こり、その聖徳が十分に実証されたため、1228年6月16日に教皇グレゴリウス9世によって列聖されました。彼の生涯に心からの敬意と感謝を表します。


「アッシジの聖フランチェスコ」 : レオン・フレデリック
姫路市立美術館



平和を求める祈り

わたしをあなたの平和の道具としてお使いください
憎しみのあるところに愛を
いさかいのあるところにゆるしを
分裂のあるところに一致を
疑惑のあるところに信仰を
誤っているところに真理を
絶望のあるところに希望を
闇に光を 悲しみのあるところに喜びを
慰められるよりは慰めることを
理解されるよりは理解することを
愛されるよりは愛することを
わたしが求めますように
わたしたちは 与えるから受け
ゆるすからゆるされ
自分を捨てて死に
永遠のいのちをいただくのですから