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東洋で
生まれた詩


タゴールの
生い立ち


生命の詩人
タゴール誕生


妻ムリナリニ
との出会い


黄金色に
輝くベンガル


静かな改革者
としての道


詩人の学校

苦悩をも
昇華して


ノーベル
文学賞受賞


永遠との
合一を求めて


ガンディと
タゴール


ビューティフルワールド 16
〜 生命の詩人 〜
ラビンドラナート・タゴール
【Rabindranath Tagore : 1861〜1941】


東洋で初のノーベル文学賞を受賞した生命の詩人タゴール。
詩聖としてもさることながら、小説、戯曲、音楽、絵画、思想、哲学など
優れた才能はあらゆる方面に及びました。
彼の作品には、ただ美しいだけの叙情ではなく、そこには敬虔な祈りがあり
その祈りの中から人間の無限の可能性を切り開いていこうとする
静かな情熱が伝わってきます。
彼の作品こそ、人類の精神性が問い直されている現代において
先ずひもとかれなければならない文化の所産であるといえるでしょう。


◆ 東洋で生まれた詩


1912年6月30日の夕べ、ロンドンのハムステッド郊外で詩の朗読会が催されました。朗読したのはアイルランドが誇る世界的詩人W. B. イェーツ、そして朗読されたのはタゴールというインドの詩人の詩。参加者はロンドンの文壇・社交界のそうそうたる名士たちです。会の冒頭で出席者の紹介が終わり、イェーツが「音楽的なうっとりする声」で何篇かの作品を朗読し始めました。参会者たちは暮れなずむ夏の夕べの窓に座ってじっと目を閉じ、その声に聞き入っています。やがて小休止になって目を開くと、大都会ロンドンのあかりが次々と灯り、街全体が光の島のように夜の闇に浮かんでいました。時には囁くように、そして時には歌うように、一篇、また一篇とイェーツが読み進むにつれて、集まった人々は一様にガンジス河畔で奏でられたであろう素朴で敬虔な葦笛の音色を思い、我を忘れて聴き入るのでした。

あなたは私を無限にした
それがあなたの歓びである
この脆い器をあなたは幾度となく空にして
また常に新たないのちでそれを溢れさせる
この小さい葦の笛を
あなたは丘を超え谷を渡って持ち運んだ
そうしてそれで永遠に新しい旋律を吹いた
あなたの不滅の手に触れて
私の小さな胸は歓喜に張り裂け
言いがたい叫びをあげる
あなたの無限の賜物は
ただこのささやかな私の掌を通して与えられる
幾度すぎても あなたはなおも注いでいる
そうして そこにはなおも満たされるべき
空所が残っている
『ギタンジャリ』冒頭歌

朗読が終わった時、一瞬、部屋は重い沈黙に包まれたままでした。やはり西洋人には自分の詩は理解してもらえなかったのか、とタゴールは失望しました。しかし、それは感動の沈黙でした。詩の中にうたわれている「あなた」とは紛れもなく「神」を指しています。彼の理想には人格的な神が欠かせません。タゴールはこの大いなる存在の前に世俗の一切の虚飾や自己主張を捨てて、幼子のような純真さ、素朴さをもって、自己の存在のすべてを詩に昇華して捧げたのです。この夜、参会者の誰もが彼の詩に深く感動し、その感動は止むことがありませんでした。
外国人として初めて詩人タゴールを見出したのは、イギリス人肖像画家であり、この朗読会の主催者でもあるサー・ウィリアム・ローセンスタインでした。彼は、1910年にインドのカルカッタを訪れた際に、世話になった画家の親戚にあたるタゴールに初めて出会ったのです。タゴールは、一見して50歳ほどのもの静かな男でした。しかし、美を発見することに長けていたローセンスタインの眼に、タゴールはそれ以上の人間に映りました。美しい姿勢、真理を真っ直ぐに見つめるような眼、濁りや邪悪さや傲慢さに汚れたことのない顔立ち−。まるで、“全き人生”に対する強い意思が、風貌や肉体に現れているかのようでした。後にローセンスタインはこの時の出合いの様子について、「タゴールにあなたの肖像を描いてもいいですかと尋ね、思わず鉛筆で素描を試みたほどであった」と回想しています。

朗読会に対するタゴールの謝辞

この度、貴国に参りましてから、私を迎えてくださった方々の私への関心と愛情に圧倒されております。どんなに言葉を尽くしても、この気持ちを充分に言い表すことはできません。私たちの言葉は異なり、習慣は違っていても、私たちの心はその奥深いところでは同じだということを、私は知りました。モンスーンの雨雲はナイルの岸で沸き起こり、遠くガンジスの河畔に恵みの雨を降らせます。同様に、燦燦と輝く東洋の太陽のもと、長い年月の瞑想によって形づくられた思想も、西洋の岸へと漂いゆかなければなりません。「東は東、西は西」と言われますが、これは真理ではありませんし、また真理であってはなりません。いつの日にか、東と西は友愛と平和と相互理解のうちに出会わなければなりません。そしてその出会いは、互いの相違のゆえに、いっそう実りの多いものとなりましょう。それは人類共通の神殿での聖なる婚姻に通じるものでもあります。


◆ タゴールの生い立ち


“タゴール”ことラビンドラナート・タゴールは、篤い信仰心と高潔な人柄を持ち合わせたデベンドラナート・タゴールの14人兄弟の末子として、1861年5月7日にカルカッタに産まれました。大きな館で合同家族を営む兄たちは、それぞれに哲学者・音楽家・社会事業家として一家を成しており、このためタゴール家には、敬虔な宗教的雰囲気と自由で活気に満ちた学問・芸術愛好の機運がみなぎっていました。少年ラビ(ラビは「太陽」の意味で、少年時代のラビンドラナートの愛称)は、このような恵まれた家庭環境のなかで、インド文化最上の蜜と乳によって育てられたのでした。
ラビは感受性豊かな、夢見ることの好きな少年でした。毎朝目を覚ますと、真っ先に庭に駆け降りて、夜露のしたたる草の香りや椰子の梢に煌めく陽の光を楽しみ、夕方になると、暮れてゆく雲の色彩の変化を眺めては、「群がる雲よりももっと深い驚異に満たされる」のでした。詩との出合いは8歳の時、幼いラビがベンガル語のアルファベットを一通り習い終え、いよいよ短い文章を習い始めた時のことでした。「ジョル・ポレ、パタ・ノレ(雨はぱらぱら、木の葉はざわざわ)」という簡単な韻の詩句を読むや、幼い彼の心は言い知れぬ喜びに震えたのでした。それは彼が生涯で最初に遭遇した詩句であり、“詩的啓示”でしたが、本のページを閉じたあとも、その言葉の響きは彼の心の中で鳴り止むことはありませんでした。こうして彼は、幼くして詩作の歓びを知ったのです。
11歳になると、幼いラビは父に連れられて、生まれて初めての旅に出ました。そして父の瞑想の地であったシャンティニケタンの平原を訪れたり、ヒマラヤ山脈の美しい避暑地ダルハウジーに滞在したりしましたが、これら雄大な山懐に抱かれて過ごした日々は、少年の自然への愛と畏敬を決定的なものにしたようです。また、父は毎夜夕闇の迫る頃、山荘のべランダで息子を傍らに座らせて星座を教え、天文学の話をして聞かせました。そして息子に神への讃歌をうたって聴かせると、少年は「頭を垂れ、手を握りしめて熱心に聞き入る」のでした。この旅で、ラビは父の一途で敬虔な信仰心を無言のうちに吸収し、それを生涯、真理への求道の範としたのです。
 以来、ラビの早熟な詩才は、周囲の暖かいまなざしと遭遇するすべての喜びや悲しみを滋味として、長編小説や抒情詩、戯曲や短編小説などに見事に開花してゆきました。しかし厳格な父としては、いつまでも悍馬のような息子を自由奔放に放っておくことはできません。彼の将来のためには、兄たちのように官吏や弁護士といった「正業」につかせなければならない…。そこで、父はたまたまイギリスに出向くことになっていた次兄に託し、末子をイギリスに留学させることにしました。こうして彼は17歳の時にイギリスに渡り、しばらくの間、ロンドン大学で英文学などを聴講しました。しかしながら、結局はどこの大学の正規課程を終了することもなく、一年半後には未完の長編抒情詩『破れた心』の草稿を携えて帰国してしまうのでした。
このイギリス留学は、大学の卒業資格を得るという初期の目的からすれば、徒労に終わったように思えます。しかし一年半のイギリスでの生活は、その後の詩人としての彼の成長にとって、決して無益ではありませんでした。というのも、彼はロンドン滞在中、西洋の古典文学やイギリスロマン派の詩人たちの作品に親しむ一方で、ヨーロッパの文化を学び、触れることによって、その精神に参入したからです。その成果は、帰国後に発表した『夕べの歌』と題する詩集に観ることができます。彼はこの作品によって、「ベンガルのシェリー」として一躍文壇にその名を知られるようになりました。しかし、これらはいたずらに青年期特有の憂鬱や不安をうたったものであったため、彼がそうした感傷世界の殻を破って生命の歓喜の世界へと踊り出たのは、それから間もない21歳の初秋頃と見ることができます。


◆ 生命の詩人タゴール 誕生


それは、ある朝カルカッタにある兄の家のベランダに立って、外を眺めていた時のことでした。タゴールはそれを見た時の不思議な感動を、このように回想しています:
太陽がちょうどそれらの木々の葉の茂った梢をぬけて昇ってゆくところだった。突然、私の眼の覆いが落ちたらしく、私は世界がある不思議な光輝に浴し、同時に美と歓喜が四方に高まってゆくのを見た。この光輝は一瞬にして、私の心に鬱積していた悲哀と意気消沈の壁を突き破り、心を普遍的な光で満たしたのだった。
この時以来、世界の内奥に潜む実在の輝きを体験し、真の自我を見い出したという歓びの実感は、彼の心から生涯離れることはありませんでした。いやむしろ彼は、その時の直感を内観して思想的に深化させ、詩の言葉へと昇華・結晶させることを自らの人生の課題としたのです。ここにおいてタゴールは『夕べの歌』のメランコリックな幻想の世界と訣別して、いみじくもその名の如く「生命の詩人」として生まれ変わったのでした:

光よ 私の光よ 世界に充満する光よ
心をやわらげる光よ!
おお、いとしいものよ
光は踊るー私の生命の中心で
いとしいものよ
光は奏でるー私の愛の竪琴を空は裂け
風は激しく吹き渡り
笑いが大地を駆けめぐる
蝶たちは 光の海に帆を広げ
百合もジャスミンも 光の波頭に揺れ動く
『ギタンジャリ』第57歌


◆ 妻ムリナリニとの出会い


精神体験のあった翌年、タゴールは当時のインドの習慣に従って、家族の取り決めた結婚をしました。花嫁のムリナリニは、ほとんど無学と言ってよい10歳の少女でした。「当代きって最も夢多い青年のために、こんなに夢のない結婚が準備された」とは、著名な『タゴール伝』の著者クリパラーニの言葉ですが、詩人はこの夢のない結婚から、無限の可能性を引き出したようです。2人の結婚生活は幼い妻の教育から始まりましたが、妻も夫に従ってよく学び、母国語のベンガル語はもちろん、英語やサンスクリット語までマスターしました。その語学力は、後年、大叙事詩『ラーマ−ヤナ』を完璧な英語に翻訳して、作者を喜ばせたほどであったと言われています。しかし何よりも彼女が偉大であったのは、その細やかな心遣いで家庭を包み、生涯詩人の創作活動の支えとなったことでした。タゴール夫妻にとって結婚生活は、愛と人格と仕事の創造の場であったのです:

心は 人生の最初の愛を生命に献げた
日常のすべての愛が
生命の最初の黄金の鞭にふれて目を覚ます
愛するものをいとおしいと思い
花のつぼみをいとおしいと思う
私の愛に生命の鞭が触れると
愛はいっそう親密なものとなる
『ギタンジャリ』


◆ 黄金色に輝くベンガル


ムリナリニとの20年に渡る幸福な結婚生活の時代は、タゴールにとって詩・歌曲・小説・戯曲・評論と文芸活動のすべての分野で精力的に作品を生み出した豊饒の時期となりました。しかしながら同時にそれは、人間として政治の不条理や社会の諸問題に目を向け、声なき人々の声を代弁する純正のヒューマ二ストへの脱皮の時でもあったようです。

 その新しい季節はこのようにして始まりました。1891年30歳の時、タゴールは厳父の命を受けて一族の農地の管理のために東ベンガルのシライドホへ赴きました。着任当初、タゴールは領地の管理などという慣れない現実の業務には自信がなかったようですが、とにかく農村と農民の生活の実態を自分の目で確かめようと、あちこちの村々を訪ねてまわりました。
「ようこそ、いらっしゃい…」
彼は訪れる先々で、シライドホの自然が自分に掛けてくる歓迎の声を聞きました。陽光はきらめき、全てに満ちているという実感。あらゆる色がこの景色の中にはあります。“ショナル・バングラ(黄金色に輝くベンガルよ)…”タゴールは思わず呟きました。この豊かさ、生命の豊饒。貧しい人々が住むベンガルは、黄金の詩に包まれていたのでした。「ショナル」は字義的には「黄金の」という意味ですが、そこには言葉では言い表せない美しいものへの愛おしさと称賛の気持ちが込められています。彼は「黄金のベンガル」のまっただ中で母なる大自然の懐に抱かれ、心ゆくまでその美を満喫するのでした。

しかし、自然の景観から一転して傍らに眼をやると、そこには貧しさと虐待に慣れきってしまった動物のような農民の姿がありました。彼らは、もはや歓びをもって作物を育て、国を養う人々ではありませんでした。イギリス東インド会社が導入した地租徴収制度によって、伝統的な農村の社会秩序が完全に破壊され、農民たちは死ぬまで家畜のように這いつくばって働くしかない、名もなき労働力と化していたのです。「このような状況から彼等を立ち直らせるためには、先ず、農民たちの自己蔑視や依存心を払拭させ、自立心を取り戻させなければならない…」そこで彼は、無力な農民たちの力を結集すべく、農業協同組合的な自治組織を設立して、農産物の直接販売に乗り出しました。また、農閑期の副業として織物・革細工・染め物などの家内工業を奨励し、同時に、道路や共同池や堤防の補修なども村人が自力で行うように説いて回りました。また、詩や小説のほかに政治・社会評論を次々に発表して、経済搾取や人種差別を痛烈に批判する一方、政治集会などにも積極的に参加して、歯に衣着せぬ率直な発言をするようになりました。彼は同胞にこう呼びかけます:

インド70万の農村は
国家の体を流れる動脈である
悲しむべきは 今日その血管の血が
干上がっていることである
これを癒すために 我々はどうすればよいか?
我々は新しい秩序を築き
農村に救済の手を差し伸べ
養分を与える手段を講じなくてよいのだろうか!

こういった論調はイギリス人官吏を刺激するばかりか、カースト制度に寄りかかっているヒンズー教徒らの反発も招きました。しかし、彼はやめませんでした。人々の心に訴えることによって、イギリスの資本力で滅びかけているインドに新しい力を与えようとしたのです。こうして、名もなき農民に豊かな理解をもった、そして人と自然にいっそう広い視野と想像力をもったラビンドラナート・タゴールが誕生したのでした:

わが主よ、これがあなたに捧げる私の祈り
願わくは 私の心の貧しさの根源を
打って打って打ちすえ給え
願わくは 喜びにも悲しみにも軽々と
耐え忍ぶ力を与え給え
願わくは 私の愛を奉仕において
実らせる力を与え給え
そして願わくは
愛をこめてあなたの御心のままに
従う力を与え給え!
『ギタンジャリ』第36歌

タゴールの愛国心

タゴールの祖国と同胞への熱い想いは、詩人タゴールをして数々の優れた愛国歌を書かせました。しかし、一口に愛国歌と言っても、タゴールのそれは「非は全て敵に、正義は我にあり」として敵愾心や憎悪を煽るようなものではありません。彼が忠誠を誓ったのは「真理」に対してであり、彼が献身する祖国は、真理に目覚めた神の王国でした。したがって、タゴールの愛国歌はインドの民だけではなく、世界のすべての民族が同じ心で歌うことができます。ちなみに、インドの国歌も隣国バングラデシュの国歌もタゴールの作詞・作曲になる歌であり、今日なお彼の歌は、朝な夕なに両国のどこかで歌われているのです:

心が怖れを抱かず
頭が毅然と高く保たれているところ
知識が自由であるところ
世界が狭い国家の壁で
引き裂かれていないところ
言葉が真理の深みから湧き出ずるところ
たゆみない努力が完成に向かって
両腕を差し伸べるところ
心が広がりゆく思想と行動へと
御身の手で導かれ前進するところ
そのような自由の天国へと
父よ、わが祖国を目覚めさせ給え!
『ギタンジャリ』に収録された愛国歌


◆ 静かな改革者としての道


タゴールは本質的には詩人・思想家であり、彼が積極的に政治や社会問題に関与したのは、ひとえに人間としての止むに止まれぬ責任感や同胞愛のためでした。したがって彼の政治的発言や行動は、しばしば政治家たちから理想的過ぎると疎まれ、時にはそのために揶揄や非難の矢面に立たなければなりませんでした。けれどもタゴールが単身イギリス政府に対して示した愛国的行為は、政治家たちには考えも及ばなかった詩人ならではの颯爽たる快挙でした。そのエピソードとは、1919年に起きたアムリッツアルの大虐殺事件*です。シャンティニケタンでこの事件の知らせを聞いたタゴールは、抗議運動を組織した後、総督に宛てて一通の書簡をしたため、ノーベル賞受賞に際して政府から送られたナイトの称号を返還する旨を公言したのでした:

私がせめても国のためになし得ることは、すべての結果を一身に引き受けて、恐怖のあまり唖然としてものも言えないでいる幾百万の同胞の抗議の意志に声を与えることです。そこで私としては、贈られた一切の特別の栄誉を断ち切って、同胞の傍らに立ちたいと存じますーいわゆる目立たぬ存在であるために、とかく人間に値しない侮辱を嘗めさせられてきた人たちの側に…

こうしてタゴールは、ただ独り、恐怖のためにすべての人々の胸に押し殺されていた国民の悲痛な叫びに声を与えたのでした。もちろん、詩人の爵位返還は、政府に手痛い打撃を与えることにはなりませんでしたが、その毅然たる態度は国民に自尊心を回復させ、国民が最も必要としている時に彼等に勇気と信念を与えたのです。

*1919年4月13日に、インド北部のアムリッツアルでイギリス軍 が非武装の民衆に機関銃の無差別掃射を浴びせ、死者千数百名を出した惨事。


◆ 詩人の学校


1901年になると、タゴールは妻と5人の子供たちを連れて、シャンティ二ケタンに移住しました。そして、「平和の住まい」を意味するその閑静な大自然の一角に、自らの教育の理想を実現すべく、小さな私塾を発足したのでした。設立当初、教室はマンゴーの木の下で、生徒は自分の長男を含めて5人、教師も5人という小さな規模からの出発でしたが、詩人はここで、古代インドの「森の草庵」に習い、子供たちを大自然のただ中に置き、自然を教師とし友として、知性の発達とともに豊かな感性を育てる全人教育を施そうとしたのでした。

タゴールが子供たちの学校を建てたのは、彼自身が子供の頃に学校で大変苦しんだからでした。植民地インドでの学校はすべてイギリス式でした。英語を用い、イギリス製の教科書を使い、厳格な規律のなかで頭ごなしに知識を詰め込んでいく方式です。そこではタゴールは「一年を通してクラスのどん底に無言のまま坐っている」落ちこぼれの生徒でした。そのため彼は、三度も学校を変えざるを得なかったのですが、結局どこも長続きせず、生涯、一枚も卒業証書を手にすることはありませんでした。少年時代のこの苦い思い出が、私塾の設立の重要な動機となったことは言うまでもありません。この時彼は、子供が本来秘めている好奇心を引き出すことが教育の第一原理であることを、身をもって体験したのです:

教えることの主な目的は
意味を説明することではなく
心の扉をたたくことなのだ

タゴールのこの学校は、20年後に「全世界が一つの巣のなかで出会う」ことをモットーとする国際大学へ、さらに独立後は歴代大統領が学長を勤める国立大学として発展を続け、現在に至っています。ちなみに、故インディラ・ガンジー首相や世界的な映画監督サタジット・レイも、タゴール時代にこの学園に学んだのでした。


◆ 苦悩をも昇華して


このように、新しい世紀の始まりはタゴールにとって人生の一大転機となりましたが、それはひたすら神を信じ人生を愛した詩人にとって、筆舌に尽くし難い苛酷な試練の歳月でもありました。先ず学校創立の翌年に、妻のムリナリニが29歳の若さでこの世を去りました。そして翌年12歳の娘レヌカを、ついで1905年には敬愛する父を失い、さらに2年後には傷心の詩人を打ちのめすかのように、末子ショミンドロナトまでも奪い去ったのです。こうしてタゴールは、わずか数年の間に愛する身内を相次いで喪うという不幸に見舞われ、人生最大の苦杯を最後の一滴まで飲み干したのでした。しかしながら彼は、常人であれば己の悲運を呪うほどの絶望の淵に立ったときに、改めて生と死に正面から対時し、死をも大きな生命の一部と見なして愛おしむ、独自の生命哲学に到達したのです。彼が死の苦悩をいかに高い宗教感情にまで昇華したかは、次の詩の中に読み取ることができます:

おお 死よ 私の死よ
生を最後に完成させるものよ
来ておくれ 私に囁きかけておくれ!
来る日も 来る日も 私はおまえを待ち受けてきた
おまえのため 人生の歓びにも痛みにも
私は じっと耐えてきた
私の存在 所有 望み 愛
すべてが秘かな深みで
たえずおまえに向かって流れていた
最後に ひとたびおまえが目くばせすれば
私の生命は 永遠におまえのものになるだろう
花は編まれ 花婿を迎える花環の用意もととのった
結婚式がすめば 花嫁は自分の家をあとにして
夜の静寂に ただひとり 夫のもとに嫁ぐだろう
『ギタンジャリ』第91歌

確かに死がなければ、人生はいつまでたっても未完成のままかもしれない…なぜならば私たちの存在も、所有も、愛も、人生のすべての営みは、刻々と死という永遠の大海に刻々と向かって流れてゆくものだから… だから私たちは、“夫のもとに嫁ぐ花嫁のようにいそいそと”永遠のもとに還る準備をしなければならないのでしょう。「今の生を感動をもって生きること、生きている歓びを実感すること、それが生を完成することなのだ」限りなく生をいとおしんだ詩人は、私たちにそう語りかけているようです。

タゴールとKorea

この詩は、1929年に韓国の新聞社「東亜日報」の記者から韓国訪問を要請されたときに、タゴールが送ったものです。当時、アジアの小さき属国にすぎなかった韓国の輝かしい未来を、このように予見した彼の先見性には、驚きを隠せません:

かつて アジアの黄金時代に
ともしびの一つであったKorea
そのともしびが再び明かりを照らす日には
あなたは東方の明るい光になるであろう
心には恐れがなく
頭は空高くあげられるところ
知識は自由で
狭い塀で世界がわけられないところ
真理の深いところから
み言葉が湧いてくるところ
絶え間のない努力が
人間の完成に向かって腕を開くところ
知性の清い流れは
固まった習慣の砂原に道を失っていないところ
無限に拡がりゆく考えと行動で
われわれの心を導くところ
そのような自由の天国に
我々の心の祖国Koreaよ
目覚めなさい!


◆ アジア初のノーベル文学賞受賞


1912年になると、タゴールは学校の創立、政治運動の挫折、そして相次ぐ肉身との死別の悲しみという十年来の心身の疲労を癒すべく、イギリスへと旅立ちました。この時、長い船旅のつれづれに翻訳した自作の詩の英訳が、ロンドン滞在中にW. B. イェーツの手に渡ったことは冒頭でお話したとおりです。著名な浪漫派の詩人は、名も知らぬインドの詩人の作品を読んで、たちまちそこに異国趣味ではなく、自分の内面の声と相呼応する詩魂を感じ、彼が“つねに夢見てきた一つの世界”を見い出して驚喜したのでした。彼はその感動を『ギタンジャリ』に寄せた序文にこう書き記しています:

私はそれらの訳稿を何日も持ち歩き、列車のなかでも、乗り合いバスの二階席でも、またレストランでも読んだ。そして私は、ときどき、どんなに自分がそれに感動しているかを他人に見られないように、そのノートを閉じなくてはならなかった…

こうして同年末にはイェーツの序文を付して、英文詩集『ギタンジャリ(歌の捧げもの)』が750部の限定版で上梓され、伝統あるイギリス詩壇に旋風を巻き起こしたのでした。しかも翌年には、図らずも100ページ足らずのその小さな詩集にノーベル文学賞が授けられ、タゴールは一躍世界の桂冠詩人となったのです。

このアジア人最初のノーベル文学賞受賞のニュースは、インド国内だけではなく、ヨーロッパ諸国やアジアの国々にも大きな反響を呼び起こしました。それは、イギリスの苛酷な植民地支配のもとで搾取と圧政にあえぎながら、民族の自尊心までも喪失していたインド同胞の心には、闇に射す一条の光明のように迎えられたことでしょう。そしてそれは更に、広大なインドで言語・宗教・習慣を異にする分断された民族の共通の文化への意識を呼び覚まし、国民的な自信と連帯感を与えることにもなったのです。

一方、アメリカのマスコミでは「この栄誉がなぜ白人でない作家に贈られたのか理解に苦しむ」という差別的な論調がはびこりました。しかし、その時すでにタゴールのヒューマニズムは国境を越えていました。更にそれは時代を超え、来るべき世紀の人類世界のあるべき姿を示唆していました。そのことを彼は次のようにうたっています:

あなたは私を 私の知らなかった友らに
引き合わせてくれました
あなたは私の家でないところに
私の席をもうけてくれました
あなたは遠くの人たちを近づけ
見知らぬ人を兄弟にしてくれました
人、あなたを知るとき 一人として異邦人はなく
一つとして閉ざされた扉はありません
おお、私の祈りを聞きとどけてください
多くの人たちとの触れ合いのなかで
一なるものに触れる至福を
見失うことがありませんように…
『ギタンジャリ』第63歌

この詩からも読み取れるように、タゴールはインドの伝統哲学の流れをくむ「一は多であり、多は一に帰還する」という思想をもって、世界と人類を見つめていました。人間ひとりひとりの魂に宇宙的な真実である「梵(ブラフマン)」が宿っていると観るとき、世界の多民族に見られる肌色や言語や習慣の違いも、単なる表現の「多」に過ぎず、そうした相違の奥に内在する「一」なる中心において世界の人々は出会い、結びつかなければならないと考えていたのです。ここにおいて彼は「人、あなたを知るとき一人として異邦人はなく、一つとして閉ざされた扉はありません」とうたうことのできる、広大なヒューマニズムの精神に到達したのでした。

こうして晩年のタゴールは「世界市民」としての自覚と責任感を強め、以来彼は、その死までの歳月を“一つの世界”という理想の松明を掲げて、ヨーロッパから南北

アメリカ大陸へ、ソヴィエトから中国・日本・東南アジア・中近東へと、愛と平和の巡礼の旅を続けたのでした。このことからも、タゴールほど自分の頭上に輝いたノーベル賞の栄誉を人類に還元したノーベル賞受賞者 [Nobel Laureate] はいなかったと言えるでしょう。


◆ 永遠との合一を求めて


1941年8月7日、ラビンドラナート・タゴールは静かにその生涯の幕を閉じました。彼は、長いインド史の中でも最も絶望的な暗黒の時代にイギリス支配の拠点であったカルカッタに生を享け、生涯をイギリス植民地の住民として生きなければなりませんでした。しかし1941年にこの世を去った時には、祖国は独立に向かっていよいよ最後の決戦に乗り出そうとしていました。こうして絶望の暗闇から独立の夜明けまでの激動の80年間が、そのままタゴールの人生の歳月となりました。そして彼はその生涯を通して、苦渋と栄光に満ちた多岐多難な現実を精一杯に生ながら、民族や国境を超えた人間への愛を実践し、さらには時空を超えた永遠との合一をひたすら求め続けたのでした。タゴールの生涯は、それ自身「大いなるものの合一」に捧げられた愛と歓喜の一大交響曲であったと言えるでしょう。

タゴールの人生に対するこのような姿勢は、全生涯を通じて変わることなく、一本の太い主軸となって彼の作品を発展的に貫きます。そしてそれは、最晩年、病の床で迫りくる死の足音を確実に聞きながらも、一時的に小康状態を得た時に書かれた一篇の詩に生命賛歌として結実したのでした:

この世は味わい深く
大地の塵までが美しい―
こんな大いなる賛歌を 私は心に唱えてきた
これこそは 心に満たされたものの生のメッセージ
日ごと 私はなにがしかの真理の贈り物を
受け取ってきたが
その味わいは 色あせることはない
そのために 黄泉の国への別れの岸辺に立って
なお かの頌歌がこだまする―
『恢復期』冒頭歌

「この世は味わい深く、大地の塵までが美しい」―なんという素直で謙虚、そして全幅的な人生肯定の賛歌でしょう。確かにこの詩は「心満たされた者の生へのメッセージ」に違いありません。しかし、私たちがここで忘れてはならないのは、彼の生涯が、必ずしも苦悩や悲哀を知らぬ安穏な歳月ではなかったということです。彼は、個人生活においては妻を早く亡くし、また、5人のうち4人の子供にも先立たれていました。そればかりか、彼が創設したタゴール国際大学は絶えず資金不足に悩まされ、74歳に至ってもなお自らの老躯に鞭打って、資金集めのために学生たちとともに戯曲を上演して廻らなければならないほどでした。けれども、彼は祖国の運命や人類の行く末に思いを馳せ、時代の痛みを一手に引き受けることを厭わなかったのです。ですからタゴールの詩とは、名もない一本の小さな花の美しさゆえに、地球を、人生を愛おしみ、そして懐かしむ人々の心に通じる詩です。彼ほど人間を愛し、生命を愛おしんだ詩人はいまだかつていなかったし、これからも現れることはないでしょう。この意味において、タゴールはすべての人々の心の祈りや思いをうたった「生命の詩人」なのであり、「近代インドの精神」と呼ぶにふさわしい理想的人格なのです。

ガンディ と タゴール

18世紀から19世紀にかけてのインドは、卓越した二つの人格を生みました。詩聖ラビンドラナート・タゴールと独立の父マハトマ・ガンディです。

二人の出会いは1915年3月、ガンディがインドに戻り、タゴールが創設したシャンティニケトンの学校を訪れたことに始まります。ガンディは学内を注意深く見回ると、やがて「掃除や炊事にいたるまで学園内におけるいっさいの些事を他人に頼ることなく、自分の責任でしなければならない」という忠告を与えました。タゴールはガンディのこの忠告に戸惑いませんでした。なぜならその忠告は「学園内の自治」、ひいては「インドがイギリスなどの外国に頼らず生きていくための自治」の実験であることを見抜いていたからです。

ガンディもタゴールも、愛国者であるという点では同じでした。また、インドがイギリスに隷属してはならないと考えた点も同じでした。しかし、タゴールは「国家」「国民」という言葉を拒否するほどの理想、すなわち「国家の自治ではない、人間の魂の自由」を理想としていました。彼は、人間自身がいつのまにか作り上げた「国家」とか「国民」とか「自治」とかいうものからさえも自由になって、神が与えてくれた広大な自然のなかで、魂を喜ばせることを目指したのです。それは、彼の詩に表現されている「世界の岸辺に集う子供たち」になることでした:

おまえの席は
子どもたちと遊ぶ「世界の岸辺」にあるのだ
そこにおまえの安らぎがあり
それでこそ
私はおまえと共にいるのだ


語り合うガンディとタゴール

信仰の面においても、二人は共通項を持っていました。本文中で「タゴールの理想には人格的な神がかかせない」とお話しましたが、ガンディも留学地のロンドンにおいて、エドウィン・アーノルドの『アジアの光』を読んで仏陀の生き方に感銘を受け、ヒンズー教の聖典『バガヴァッド・ギータ』を読んで自分のなかにある魂を知り、『聖書』を読んでキリストが実践した最高の愛と自己犠牲の精神に目覚めたのでした。したがって、彼の抵抗運動の根底には、「右の頬を殴られたら、左の頬も差し出せ」というキリストの精神が脈々と流れています。

彼らは海外からも高い評価を受け、アインシュタインは「このような人物が肉と血をもってこの地上を歩いたとは、未来の世代は信じられないだろう」と言ってガンディの気高い人間性に惜しみない賛辞を送り、シュヴァイツァーは、タゴールを「インドのゲーテ」と呼んで、その精神性溢れる詩の世界を讃えたのでした。しかしながら最も注目に値することは、彼らが一民族・一国家の歴史に優れた足跡を残した国民的英雄や功労者としてではなく、人間に生来備わっている「聖性」をとことんまで追求したという点にあります。

彼らのメッセージから何を学び、人類の行く末をいかに軌道修正してゆくのか?私たちは、いまこそそれを真剣に考えるべき時期にさしかかっているといえるでしょう。