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発明家
文化の推進者
平和の友


極貧の
少年時代


スカンジナビア

事業家への道

ニトログリセリン

悲劇を越えて

相次ぐ惨劇

ダイナマイト

大富豪への道

「死の商人」
という汚名


平和への願い

旅路の果てに

莫大な遺産

ノーベル賞

普遍的言語

受賞者の言葉

ビューティフルワールド 15
アルフレッド・ノーベル
〜 平和への希求 〜
【Alfred Nobel : 1833-1896】


ダイナマイトの発明によって、科学史のみならず 人類史の行方をも変えたといわれるアルフレッド・ノーベル。 彼が建設したダイナマイト工場は世界100箇所に及び ヨーロッパ有数の実業家として未曾有の成功をおさめました。 しかしその一方で、開発したダイナマイトは兵器に利用され 多くの人々の命を奪う結果に…。 ダイナマイトの利用を巡って戦争と平和の狭間で揺れ動いた彼は 平和への希求を“ノーベル賞創設”という遺言に託し、昇華。 そうした彼の気高い意志は、死後100年以上を経た今日も ノーベル賞を通して学問と人間愛を奨励し、人類の進歩に貢献し続けています。


 ◆ 発明家・文化の推進者・平和の友


スウェーデンの首都ストックホルム。この街の中心地に「発明家・文化の推進者・平和の友」と刻まれた石碑が残っています。ダイナマイトの発明でヨーロッパ有数の大富豪となり、死後にノーベル賞を創設することを遺言して死んだアルフレッド・ノーベルを記念して建てられたものです。




◆ 極貧の少年時代


伝説の科学者にして大富豪、そしてノーベル賞創設者のアルフレッド・ノーベルは、1833年スウェーデンのストックホルムにて、父イマニュエルと母アンドリエッテの3男として生まれました。ノーベル家の起源については諸説があってはっきりしませんが、一説によると、スウェーデンの最南部にあるネベレフという村に発祥した一族であるといわれています。

イマニュエルは有能な建築家でしたが、豊かな想像力に富み、次第に発明家としての才能を見せるようになります。しかしながらストックホルムでは十分に天分を花咲かせることができず、破産を余儀なくされた彼は、1837年にサンクトペテルブルグに渡ります。一方ストックホルムに残された家族は、極貧の生活を強いられることに―。アンドリエッテは、場末で牛乳と野菜を売る小さな店を営み、ふたりの兄も休日や下校後に近所の商店でアルバイトをして母親を助けるのでした。

アンドリエッテは、未熟児として生まれ、始終片頭痛や咳、背骨の痛みに襲われていたアルフレッドに、ことさら愛を注いだようです。彼もそんな母の気持ちに報いようと勉学に励み、小学校ではあらゆる教科で最高点の「A」を修めました。しかし、それ以上にアンドリエッテが喜んだのは、アルフレッドが「勤勉さ」と「品行」の項目でAを獲得したことでした。彼女は精神の豊かさを重んじる女性で、子供たちに何よりも「誠実さ」や「勤勉さ」を大切にするように教えていたのです。事業に対するアルフレッドの姿勢や事業家としての倫理観がいつも真摯だったのは、こうした母の教育の影響によるものだったのかもしれません。


◆ スカンジナビアを超えて


1842年秋、ノーベル一家に朗報が舞い込みました。5年前に出国した父イマニュエルのもとに行くことになったのです。当時、イマニュエルの事業は大成功を収めていました。ロシアがヨーロッパ列強に対抗するため、軍備増強に力を注いでいることを知った彼は、スウェーデンにいたときに発明した新型の機雷と地雷をロシア軍事省に売り込んだのです。軍事省担当者はこの新型機雷の性能を評価し、ロシア軍の武器のひとつとして採用。その礼金を元手に彼は、鋳物で工作機械や砲車の台・車輪を製造する工場を経営するまでになっていました。

少年時代のアルフレッドは文学を好み、特にバイロンやシェリーの詩を愛唱しました。生来、病気がちで内向的だった彼は、惨めさや淋しさを感じることが多くあったようですが、そのような時は、込み上げる気持ちを紛らわせるかのように次から次へと詩にしたためました。そして山川草木を「私の神経にさわらない友人」と呼び、広大なスカンジナビアの自然の中でバイロンの詩を愛唱するのでした:

道なき森には楽しみがある
さびしい海辺には歓喜がある
何人にも煩わされぬ
深い海のほとりには慰めがある
そして、ごうごうと鳴る波には音楽がある
人を愛さぬわけではないが
私は人より自然を愛する…
- アルフレッド・ノーベルが生涯愛唱した
バイロンの詩 -

一方、イマニュエルの工場ではよく機雷や地雷の実験が行われていましたが、これに興味を覚えたアルフレッドは、暇さえあれば工場を訪れ、やがて父から機械の構造や火薬の知識について手ほどきを受けるようになりました。息子の才能に気付いたイマニュエルは彼に家庭教師をつけたうえ、さらに化学専門の教師を雇い入れて、英才教育を施しました。期待に違わずアルフレッドは天賦の才を発揮し、瞬く間にロシア語、フランス語など合計5か国語をマスター。と同時に、化学の知識も驚くべき速さで吸収しました。発明家アルフレッドの素地は、この頃からすでに出来上がりつつあったのです。

やがて父は、詩作に傾倒していたアルフレッドの関心を事業に向けさせようとしたこともあって、当時17歳だった息子に海外遊学を勧めます。―詩人か科学者か―。旅の当初は人生の方向性について決めかねていたアルフレッドでしたが、旅が終わる頃には彼も立派な大人に成長し、将来の志望もはっきり決まりました。“科学者、”彼はこの目的に全力を傾けようと決意しました。そしてその決意を確認するかのように、パリで作った人生の詩を読み返すのでした:

人生は気高いもの
自然から授かったこの宝石を人は磨く
輝く光がその労に報いてくれるまで…

2年に及ぶこの遊学期間に、アルフレッドはドイツ、フランス、イタリア、アメリカ合衆国を旅しました。そして綿火薬を発明したT. J. ペローズや熱機関の研究者ジョン・エリクソンのもとを訪れ、新しい知識や技術を吸収して1851年にサンクトペテルブルグに帰国しています。


◆ 事業家への道


1851年、約2年間の旅から戻ったアルフレッドが目にしたのは、目を見張るような工場の盛況ぶりでした。ロシア皇帝ニコライ1世が領土拡大政策を積極的に押し進めたため、次々と武器や兵器を改良し、新たな戦争に備える必要に迫られていたのです。工場は拡大に次ぐ拡大で、従業員の数は優に1000人を超えていました。 成長した息子との共同経営を望んだイマニュエルは、他の出資者の持ち株を買い取り、社名を「ノーベル父子会社」と変更。ノーベル3兄弟は、これを機に共同経営者へと昇格します。1853年にクリミア戦争が始まると、会社の盛況ぶりはさらに拍車がかかりました。この頃には速射砲からロシア軍初の推進器付き軍艦に至るまで、軍のあらゆる注文に応えなければならないまでになっていたのです。この戦争ではイマニュエルの発明した機雷も使用され、大いに戦果をあげました。発明者として、機雷の成果を喜ぶ父。しかし、アルフレッドは:

この地にいても
心を広くするようなものもなければ
心に残るようなものもない…

と、それを憂う記録を残しています。のちに彼が発明するダイナマイトがそうであるように、偉大なる発明は時に人類の平和に牙を剥きます。その発明の「負の側面」に対する呵責の念が、この時すでに彼の心に重くのしかかっていたかのようです。

事実、アルフレッドのこの言葉が暗示したように、一家の優雅な生活は長く続きませんでした。1855年、ロシアの敗戦で戦争は終結。と同時に、それまで一番の取引先だったロシア政府が一方的に取引停止を宣告してきたのです。軍需品の製造を禁じられたイマニュエルは、1859年ついに破産。同年秋、一切の資産を失った彼は三人の息子を残し、妻とロシアで生まれた末子のエミールを連れて、失意のうちに故国スウェーデンに帰国してしまうのでした。

このように青年期までの経過をみても、アルフレッドは国際人となるべく運命づけられていたことがわかります。彼の国際的な関わりはスカンジナビア世界だけに限定されたものではなく、ヨーロッパ大陸を広く被うかたちの、いわばコスモポリタン的な性格のものでした。その彼が祖国に多少とも執着を見せるようになるのは、ごく晩年になってからのことです。ノーベル賞が世界で最初の国際賞として始まったことには、このような彼の人生の特徴が大きく関与していたと思われます。


イマニュエルが発明した機雷実験の様子

◆ ニトログリセリンとの出合い


それは、まだイマニュエルの事業が順調だった頃のことでした。アルフレッドはサンクトペテルブルグ大学の薬学部で教鞭をとるユーリー・トラップという人物に出会います。
「ニトログリセリンのことは知っていますか?」
おもむろに尋ねた彼は、側にあった鉄板の上に無色透明でネットリとした油状の液体を一滴たらしました。と、突然、凄まじい爆発音が工場内に響き渡りました。たった一滴でしたが、その爆発力はアルフレッドの予想を遥かに超えた凄まじいものだったのです。

このニトログリセリンと呼ばれる物質は、1847年にイタリア人アスカニオ・ソブレロによって発明された化合物でした。ニトログリセリンは非常に不安定な性質をもっており、当時はその強烈な爆発力をコントロールする方法がまだ見つかっていませんでした。この時アルフレッドは、この新しい火薬との出合いが自分の人生に一大転機をもたらすかもしれない、ということを感じとっていたのかもしれません。破産後しばらくすると、工場の残務整理は次兄ルードヴィに任されるようになり、彼は長兄ロベルトとともにニトログリセリンの研究に取り組むことになりました。


◆ 悲劇を越えて


「アルフレッド・ノーベル氏、脅威の新式爆薬を発見!」新聞や科学雑誌は「ノーベル式油状火薬」の素晴らしさをこぞって書き立て、各地からの実験や説明依頼が殺到しました。しかし、悲劇は突然やってきました。1864年の秋、工場で爆発事故が起きたのです。その被害の凄まじさは、赤レンガづくりの工場が跡形もなく消え失せ、瓦礫の山に変わるほどでした。しかも、事故による死亡者のなかには末弟エミールも含まれていたのです。当然、事故を起こしたアルフレッドに対する人々の目は冷たいものでした。しかし、それでも彼は油状火薬の製造と実験を断念するつもりはありませんでした:

科学技術の進歩は、つねに危険と背中合わせだ。
その危険を乗り越えてはじめて
人類の未来に貢献できるのだ。

度重なる試練にうなだれる家族の前でこのように言い放ったアルフレッドは、世間の容赦ない非難と弟を失った悲しみとに耐えながら、ただひたすら会社の再建に向けて奔走するのでした。


◆ 相次ぐ惨劇


苦境を乗り切ったアルフレッドにようやく幸運が舞い込んだのは、それから数カ月後のことでした。スウェーデンのある資産家から資金援助の申し出があったのです。彼の申し出を受け入れたアルフレッドは、1864年11月、世界最初のニトログリセリン製造会社を設立。ノーベル式油状火薬の本格的な事業化に取り組みました。新火薬は爆発的に売れ、海外からも注文が殺到するほどでした。

しかし、順風満帆のように見えた状況はそう長くは続きませんでした。まるでかつての事故を再現するかのように、世界のあちこちで爆発事故が相次いだのです。第一報はシベリア鉄道の工事作業員爆死の知らせでした。続いて、オーストラリアで起きた巨大倉庫の爆破事故。パナマでは貨物船が瞬時に爆沈して74名もの死者が出たほか、小さな事故は枚挙にいとまがありませんでした。これらの事故のほとんどは取り扱い不注意によるものでしたが、アルフレッドはもはや世間の避難から免れようがありませんでした。


◆ ダイナマイトへの挑戦


絶体絶命とは、おそらくこのようなことをいうのでしょう。 「この状況を打開するためには、衝撃や輸送中の振動に耐え得る新しい爆薬を作るしかない…」 その唯一の方法、それは他の物質との混合物にすることでした。しかもニトログリセリンの爆発力を損なうことなく、です。アルフレッドは不眠不休で実験に取り組みました。そしてついに、さまざまな物質の中から珪藻土という物質を見つけ出します。早速、この土を使用して起爆実験をしてみたところ、結果は極めて満足のいくものでした。他の吸着剤と比較してみても段違いに爆発力が大きく、実験値では黒色火薬の約5倍の威力を示したのです。まったく新しい火薬「ダイナマイト(<デューナミート)」―ギリシャ語で“力”を表す―の誕生でした。


◆ 大富豪への道


1867年、アルフレッドはダイナマイトで最初の特許を取得しました。先ず英国、次いでスウェーデンで―。この段階では、珪藻土に液状ニトログリセリンを滲み込ませた珪藻土ダイナマイトでしたが、これではまだ十分な爆発力を得られないため、さらに研究を重ね、1875年には爆発性ゼラチンの原理を発見し、それに基づいて無煙火薬「バリスタイト」を考案しました。1887年から翌88年にかけて、アルフレッドはその無煙火薬でも幾つかの特許を取得しています:

新しいものが発見されるたびに
人間は頭がよくなっていく。
そうやって新世代の人々は
新しい考えを受け入れる能力を身に付けるのだ。

ダイナマイトの出現が世界に与えた影響は測り知れません。ダイナマイトの発明がなければ、パナマ運河の開削もどうなっていたかわからないほどです。ダイナマイトが世界の建設業、鉱山業に及ぼした影響とその偉大な功績は、いくら高く評価してもし過ぎることはないのです。さらに、当時はヨーロッパ諸列強の軍備拡張の時代でもあり、ダイナマイトからバリスタイトにかけての爆薬の発明、そして起爆技術の開発など、アルフレッドの一連の発明や技術開発は軍事技術としても活用されました。


◆ 「死の商人」という汚名


ダイナマイトの発明とその特許によって、アルフレッド・ノーベルの名は全世界に知られるようになりました。しかしその一方で、“大量破壊兵器となる爆薬を売る男”という「陰」の側面をもたらすことになったのも事実です。ダイナマイトと聞くと、戦争に使用される爆弾―建設のためよりも破壊のために使用される―を思い出す人々は、アルフレッドはダイナマイトが産業の発展のために使われることを望んでいたこと、そして彼が生涯戦争を憎み、平和を心から願っていたことを知らないのかもしれません。彼自身はダイナマイトの使用を平和利用に限るべきだと考えていましたが、“革命家のテロ行為を容易にした”と批判する者も少なくありませんでした。事実、1881年ロシア皇帝アレクサンドル2世がサンクトペテルブルグで襲われ、ダイナマイトを使用したテロで命を落としています。この事件に対するアルフレッドの所感は記録に残っていません。しかし、自らの発明が殺戮兵器として使われたことは、後の彼の人生に大きく関わっています。

そして1888年、アルフレッドにとって大きな衝撃となった事件が起こります。フランスの新聞に「武器の売買で巨万の富を築いた“死の商人”アルフレッド・ノーベル氏死亡!」という見出しの記事が掲載されたのです。病死したルードヴィと取り違えた記事でしたが、誤報とはいえ、自分の真の評価はこんなにひどいものなのかと彼は激しいショックを受けました。不幸は重ねて訪れ、翌1889年には終生大事に思っていた母アンドリエッテも他界してしまいます。

アルフレッドは、この頃から遺言を用意する気になったようです。彼の晩年は健康状態も思わしくなく、イギリスでの訴訟事件での敗訴、そしてパリで受けたフランス政府からの迫害なども重なり、1891年にはとうとう好きな街であったパリを離れて、イタリアのサンレモに移り住んでいます。自殺をまじめに考えたという記録さえあります。いわば人生晩年の孤高な状態で発想され、綴られたのが彼の遺言なのです。しかしこの遺言は、実に覚めた精神状態で書かれており、そこには人類の未来を思う美しく気高い精神が宿っているのです。


◆ 平和への願い


アルフレッドの平和への関心は、人生の早い時期にバイロンやロマン派の詩人シェリーの詩に親しみ、その影響を受けたことから始まっています。彼はシェリーと同様に理想主義者で、神の公正さと、人間が平和と幸福を目指して苦闘し続けるものであることを信じていました:

高く、もっと高く
おまえは大地から飛び立つ
火の雲か
青い天空に翔けのぼり
歌いつつ駆け、翔けつつ歌う
雲が輝く上を
沈んだ夕陽の金色の閃光のなかを
おまえは漂い、翔けるのか
生まれたばかりの
この世ならぬ魂の歓びのように…
−パーシー B. シェリー「ひばりに寄せて」より −

そして更に、オーストリアの平和運動家ベルタ・フォン・ズットナー(Bertha von Suttner)との交際が、アルフレッドに平和問題を理論的に考える機会をもたらしたことはよく知られています。ズットナーとの人間関係は、彼女がアルフレッドの出した新聞広告に応じて彼の秘書になったことから始まっています。彼女は、年が7つも下の名門の青年作家と恋に陥り、家柄の違いや年齢の問題などで周囲から反対され、パリで仕事をする気になり、アルフレッドの秘書になったのです。しかし、やはり恋をあきらめきれず、すぐオーストリアに戻ってしまい、その作家と結婚してしまいます。彼女を気に入っていたアルフレッドは、たいそう失望します。しかし、二人はその後再会を果たし、その交際はアルフレッドが死ぬまで続きました。

1890年頃、ヨーロッパに国際的な平和運動の気運が生じたとき、ズットナーはその指導者の一人となり、オーストリア平和連盟を創設します。平和活動のための資金援助を求めて、アルフレッドとの連絡は従来以上に密になりました。その彼女との書簡のやりとりのなかで、アルフレッドはかなり明晰に自身の平和観を述べています:

我々が成すべきことは
平和を侵すものに対して
すべての国家が自らの意志で調停裁判を実施し
世界各国が調停宣言を行うような
社会をつくることです。
このような行動こそ戦争を不可能にし
不合理で野蛮な軍や政府を調停裁判にかけ
戦闘行為を抑止させることになるのです。
2、3か国だけでなく
すべての国家が幾重にも同盟関係を結べば
今後何世紀にもわたって、
平和が保証されることになるでしょう。

彼のこの考えが約30年後に設立された「国際連盟」の基礎になったことは、文面からも明かです:

狂信的な夢想家ではなく
れっきとした発明の天才
それも兵器の発明家が
諸国間の友好と、軍備の縮小と、平和運動の促進は
人間の幸福に最も大きな影響を与えることを
世界に向かって堂々と宣言したのです。
− ベルタ・フォン・ズットナ ー


アルフレッド・ノーベル直筆の遺言状


◆ 旅路の果てに


アルフレッドは生まれついての国際人でしたが、自分は正真正銘のスウェーデン人だと思っていました。61歳という高齢を迎えて、故郷が恋しくなったのでしょう。彼は、研究の本拠地を故国スウェーデンに移します。そしてそこで、人造ゴムと人造皮革の新製法、新種のニスやレーヨンを製造するための射出機の研究を行いました。“ノーベル”と聞いてただちにダイナマイト兵器を連想する人は、彼こそ、自らの発明が健全で平和な世界を建設するために使われることを切望していた、ということを再認識する必要があります。おそらくこの頃こそ、彼が研究者としての喜びを最も深く噛み締めた時期と言えるでしょう。彼は、当時の心境について「今死んでは、心残りがします。私は今、大変面白い仕事を手がけているので…」と自ら友人に手紙を書くほどでした。そして、何時間も心ゆくまで実験に打ち込んだ後は改めて母国の風物を親しみ、美しいスカンジナビアの自然を心ゆくまで堪能するのでした。

1890年代も半ばになると、彼が世界に張り巡らせたノーベル系工場群は20ヶ国93工場に達し、ダイナマイトの総生産量は6万6500トンにまでなっていました。1871年にわずか11トンからスタートして、6045倍です!事業の面では、何も心配することはありませんでした。しかしながら1895年に入ると、アルフレッドの健康状態は悪化の一途をたどります。医師の診断は狭心症。晩年の彼がニトログリセリンの厄介になっていたのは皮肉なことです。そして1896年12月10日、彼は一通の遺書を残して息を引き取ります。享年63歳。血縁者に看取られることのない孤独な死でした:

孤独と苦難の生涯を送るように
運命付けられていたノーベル氏は
その当然の結果として
ひとりの平凡な人間としてよりも
むしろ金持ちの特別な人として
世間から評価されていました。
ノーベル氏が亡くなられた今
この誤りをただそうではありませんか。
…ノーベル氏は富や出世のために冷酷になったり
孤独のために刺々しくなったりするような方では
ありませんでした。
生涯、心の温かい、優しい方でした…
あの世にいってからは
この世で立派に(nobly)生活したかどうかが
重要な問題となるのです…
―アルフレッドに送られた
セ−デルブルーム牧師の弔辞―

アルフレッド・ノーベルの墓碑

アルフレッド・ノーベル関係年譜


   1833    スウェーデンのストックホルムに誕生
1842 サンクトペテルブルグに移住
1849 ヨーロッパ・アメリカ遊学の旅に
1851 科学者となる意志を固めて帰国
1859 ノーベル父子会社閉鎖。父母とエミールは帰国
1863 ニトログリセリンの油状爆薬の特許を取得
1864 工場が爆発し、エミールを含む5人の死者
1865 アルフレッド・ノーベル会社設立
1866 ダイナマイト発明
1875 ベルタ・キンスキーと出会う
1887 無煙爆薬バリスタイトを発明
1895 パリで遺言状を作成
1896 12月10日サンレモで死去
1900 ノーベル財団設立
1901 12月10日第一回ノーベル賞受賞式


◆ 平和のために注ぎ込まれた莫大な遺産


家族のいなかったアルフレッドは、他界する1年前の1895年11月27日、生涯をかけて築き上げた莫大な遺産を処分するため、パリで次のような遺書に署名しました。簡単明瞭な内容の遺書であり、ノーベル財団はこの遺書によって創設され、彼の遺産の全額を基金とするノーベル賞が創設されました。遺言を要約すると、次のような内容になります:

ノーベル財団とノーベル賞の設立に関する遺言
(一部抜粋)

(親族への個人相続分100万クローネを除く)
残りの換金できる財産は
すべて次のような方法で処理されるべきである。
その資産は遺言執行人たちによって
安全確実な有価証券に替え
それを元に基金を設立し
利子を毎年その前年に人類に
大きな貢献をした人々に
賞の形で分かつことにする。
上記の利子は、5等分して次のように配分する。
一部は物理学の領域で
もっとも重要な発見あるいは発明をした人物に
一部はもっとも重要な
化学的発見・改良をした人物に
一部は生理学・医学の領域でもっとも重要な
発見をした人物に
また一部は文学の領域において
もっとも優れた理想主義的傾向をもつ作品を
発表した人物に
そして一部は、国家間の友好を促進する仕事
たとえば常設軍隊の廃止あるいは削減
および平和会議の開催の促進といった仕事に
最上あるいは最良の業績をあげた人物に
贈られるものとする。

そして、このパラグラフの最後には以下のように付け加えてあります:

賞を与えるにあたっては
候補者の国籍は一切考慮されてはならず
スカンジナビア出身であろうとなかろうと
最もふさわしい人物が受賞しなくては
ならないというのが
私が特に明示する願いである。

5つのノーベル賞とノーベル財団の設置は、このようにして決まりました。基金に充てられたアルフレッドの遺産は、最終的に3200万クローネ弱。これを現在の価値に直すと約15億クローネ、日本円に換算して約207億円にもなります。しかし、この資金が簡単に集められたわけではありません。アルフレッドの遺産の大半がスウェーデン、ドイツ、フランス、イギリス、ロシア、ノルウェー、イタリア、オーストリアなどにもっていた広大な所有地だったからです。これを各国の事情に応じて換金し、スウェーデンに集めなければなりませんでした。また、親族に与えられた遺産とノーベル基金との金額差があまりに大きいため、親族から不満が続出。ノーベルは結婚しないまま子供を残さずに死んだことから、彼の遺産配分を巡る考え方にも、血縁離れをした、いわば全人類愛的な、そして理想主義的な傾向が見て取れます。ノーベル賞は、そのような「血」との断絶から生まれたという因縁を背負っているのです。

この他、平和賞の選考だけがノルウェーに委託されたこと、授与対象国者の国籍を一切問わなかったことなどがスウェーデン人の反発を買い、第一回ノーベル賞が贈られたのは、アルフレッドの死から4年がたった1901年のことでした。この間、この「気高い意志」を実行するために粘り強く各国に分散した資産を集め、アルフレッドの遺言に敵対する親族やスウェーデンの人々を説得したのは、彼が最も頼りにしていた助手のラグナル・ソールマンでした。ノーベル賞は、彼の献身的な貢献がなければ発足しなかったといっても過言ではありません。こうした功績が認められ、ノーベル財団の初代理事長にはソールマンが選出されています。


◆ 世界の最高権威「ノーベル賞」


ノーベル賞は、1901年、日本流にいえば明治34年に始まりました。ちなみに、最初のノーベル物理学賞はX線の発見者として知られるドイツのW. C. レントゲンに、また、アルフレッドが最も念願していた平和賞は、国際赤十字の基礎を築いたスイス人の博愛主義者J. H. デュナンに贈られました。1901年の時点ですでに「平和」という主題が授賞の対象領域として堂々と位置づけられていたというのは、いまにして思うと驚異的と言わざるを得ません。

ノーベル賞が始まった1901年に日本が何をしていたかを考えてみると、ノーベル賞の志しの素晴らしさがよくわかります。1901年、日本は北清事変で国際舞台に踊り出たのち、富国強兵という国家スローガンを掲げ、日露戦争に向けて一路邁進していました。1901年は20世紀の始まった年ですが、日本がそれ以後も国家主義とともに生きたのに対して、スウェーデン国民がノーベル賞とともに生きてきた事実にはとても興味深いものがあります。

それから1世紀余り。ノーベル賞は第二次世界大戦の1940年から3年間を除き毎年授与されており、1969年には経済学賞が新設され、授賞対象は現在6分野になっています。この間、700人を超える人と機関が受賞しました。そのなかには天才物理学者アルバート・アインシュタイン(1921年物理学賞)、ラジウムの発見者キュリー夫妻(1903年物理学賞、マリー・キュリー夫人は1911年に化学賞も受賞)、結核菌を発見したR. コッホ(1905年生理学・医学賞)、作家のアーネスト・ヘミングウェイ(1954年文学賞)、アメリカの黒人解放運動家マーティン・ルーサー・キング牧師(1964年平和賞)などの著名人がキラ星の如く名を列ね、今日、“世界で最も権威のある賞”といわれるまでになったのです。



◆ 普遍的言語としてのノーベル賞


ノーベル賞は北欧という辺境で生まれたものでありながら、今日、一種の“普遍性”をもつに至りました。“普遍性”とは、世界のどの文化圏にも絶対的な価値として通用する点を指していうのですが、20世紀が生み出した“普遍性を備えた賞”としては、私たちはノーベル賞以上の存在を知りません。その意味で、ノーベル賞という存在は奇蹟的ですらあります。

ここで奇蹟的といいましたが、いくら普遍性を有するとはいっても、ノーベル賞が同じ人間の知性の善し悪しを測る“人為的な制度”であることに変わりはありません。私たちは、人間の手にかかるものが得てして俗に堕し、瞬く間に価値の中立性を喪失する例を多く見ています。その点、慎重な配慮と純粋な心情に支えられているからでしょうか、ノーベル賞の威信と権威には、今なおいささかの翳りもありません。

相対主義の時代といわれる今日、このような人類共通の普遍的言語であるノーベル賞という制度を築き得たのは、人類にとっての救いです。1901年に始まったノーベル賞は、20世紀の象徴そのものです。ノーベル賞ほど20世紀の特徴を鮮やかに浮き彫りにしているものは、ほかに思い当たりません。その意味において、アルフレッド・ノーベルの生涯とノーベル賞が私たちに語りかける意味は、深く噛みしめるに値するといえるでしょう:

人類の進歩と福祉を促進し
純粋に理想主義的な目的に
役立つようにとの意図をもって
人類に遺されたこの贈り物は
おそらく個人によるこの種の贈り物のうちで
最も素晴らしいものであろう…
― アルフレッド・ノーベルの遺言状に対する
スウェーデンの一流新聞紙の評 ―


歴代ノーベル賞受賞者の言葉

人は自分の向上を目指して努力しなければならない。
それと同時に、人類全体に対して共通の責任を持たなければならない。
マリー・キュリー


人生の悲劇は、まだ生きているのに心が死んでいるということである。
アルベルト・シュバイツアー
神はすべての人に愛すべき大地を与える。
だが、人の心は狭いゆえに、それぞれのささやかな地に対する神の定めは
そこをくまなく愛すことを試みる。
ラドヤード・キップリング
神はわたしに成功をおさめることではなく、真心を尽くすように命じられた。
マザー・テレサ

我々は時代の変化に適応しながらも、変わらぬ原則を持ち続けなければならない。
ジミー・カーター

真に幸せになる人は、他人のために尽くす道を求め、それを見いだした人だけである。
アルベルト・シュバイツアー
魂と精神の勝利というものがある。時には、たとえ負けても勝つのだ。
エリー・ウィーゼル
我々は深く関わり合って生きている。
だから、この世での我々の最大の目的は助け合うことである。
ダライ・ラマ14世
良い隣人とは、社会の出来事を超越して捉え、全人類、
したがって兄弟を形成している内なる特質を見抜く人のことである。
マーチン・ルーサー・キングJr.
結局、死の捉え方が私たちの生き方を決める鍵となる。
ダグ・H・ハマーショルド
ランプの灯りを絶やさずにいるには、絶えず油を注ぎ続けなければならない。
マザー・テレサ
物を与えることだけを慈善と心得ているのは、手に汗することを知らない人々だけである。
ラビンドラナート・タゴール
危険から背中を見せて逃げると危険は二倍になる。
断固として危険に立ち向かえば、危険は半分になる。
ウィンストン・チャーチル


アルフレッド・ノーベルの
サンレモの実験室